作業を始める前、久々に紙巻タバコを1本吸った。
時代に逆行するようだが、僕はいまだに喫煙者である。
さすがにメインは加熱式タバコのアイコスであるが。
メインをアイコスに変えて、もう7年くらいになる(7年!?)。
最初の初期型アイコスを買った時、なんだかワクワクしたなぁ。
当時はiQosショップで並ばないと買えなくて、整理券をもらって行列に並び、ようやく手に入れた時は幼少期にベイブレードとか、ポケモンの新作ソフトとか入手困難ホビーをようやく買ってもらえた時の気持ちを思い出したりしたものだ。
(子供の時、おもちゃ屋の行列に一緒に並んでくれるのは父だった。父は、こういう時一緒にハラハラしてくれるというか、なんなら店員に「この整理番号で買えますかねぇ……!?」と聞いたり、買ってもらう本人にさえ「そこまでしてくれなくていいよ……!」と思わせるエキサイトぶりを発揮する人だった(過去形が続くがバリバリ健在である)。それで買えた時、僕に品物を持たせて「イェーーー!ゲットしましたーーー!」と盛り上げてくれたりもするのだが、当時少年だった僕は、そういう時うまく喜びを表現できなかったりした。本当はニマニマしたいのだけど、それが恥ずかしくて笑みを噛み殺して、「ありがと……」と小さな声で言って、「学校の勉強も頑張るよ」みたいな、「僕、おもちゃを買ってもらった喜びに100%支配されてはいませーん!」というクールアピールをしていたような覚えさえある。嬉しいことがあった時、「やったーーー!うれしーーー!ありがとーーー!」という子供らしい、素直なリアクションがうまく取ることができない子供というのは一定数いると思う。そんな子供ながら、「あ、僕の冴えないリアクションのせいで大人をがっかりさせてしまったな……」というのは分かるので余計にモジモジしてしまうのである。この頃のことを思い出すと、胸がキュウと締め付けられる。もっと素直な子供でいてあげたらよかった……!)
ノスタルジアドライブをしてしまったがタバコの話だ。
そんなこんなでアイコスを愛喫してもうかなりになるのだが、アイコスの味はまぁまぁ好きである。
本当の煙のガツン!という喉へのキックはないけど、それなりに吸った感はあるし、ニコチンも摂取できるし、なにより匂いが残らないし気持ち悪くならない(ヤニクラとは違う)。
タールが含まれていないからであろう。
僕は、あのタバコのタール感に関してはそこまで好きではなく、連続で吸うと気持ちが悪くなってしまう。
だから紙巻を一番吸っていた時期でも1日に10本はいかなかったと思う。飲んでいる時はバカバカ吸ってしまったりはしたけれど。
だから、常喫するには総合的にアイコスが僕には合っているのだ。
だが、アイコスをはじめとする加熱式タバコや電子タバコは、タバコであってタバコではない。
燃焼という現象を踏んでいないため、発されるのは煙はでない。
フレーバーやニコチンが含まれた水蒸気である。
あくまで、「タバコっぽいもの」。
代替品である。
別に普段はそれで問題はないのだが、それをずーーーーっと吸っていると、ときどき、意味がわからなくなる。
「え?何これ?僕はなんのためにわざわざ機械から出てくる水蒸気を吸い込んだり吐いたりしているんだ???」という考えに取り憑かれる。
スモークゲシュタルト崩壊である。
そんな時、紙巻タバコを吸うのだ。
そうすると、加熱式タバコの意味がまたわかるようになる。
「そうだったそうだった。これの代わりに、僕は普段アイコスを使っているのだった」と。
僕は先ほど、そんな「代替元」の思い出し行為をしていのだ。
近年、紙巻はアメスピ(ナチュラル・アメリカンスピリットという銘柄)である。
紙巻がメインだった時はマルボロだったけど、「タバコを吸うという行為がなんたるかを思い出す」には、アメスピが一番適しているように思われるのである(アメスピは香料や炎症促進剤が含まれていない、無添加タバコを謳っており、タバコとしてベーシックな味わいなのだ)。
かつ、アメスピはタバコ葉が他の市販タバコに比べて、かなりギュッと詰まっている。かなりゆっくり吸えるし、1本あたりの時間も長い。
たまーに、アメスピをゆっくり吸う時間が好きだ。
火をつけて、ぱふぱふと、葉巻のようにふかしてやりながら、しっかりと煙を吸い込む。
久しぶりだから、本来のタバコの味わいというのもしっかり感じられて、うまい。
そうして思い出す、タバコがどのようなものであったかを。
指先に感じられる火の熱さ。煙のイガイガと喉にまとわりつく感覚。よく見ると主流煙と副流煙の色は違う。血管が拡張していく。そしてやってくる、独特の倦怠感。吸い終わった後の口は臭い。
そうそう、これの代わりだ。
これの代わりに、僕はアイコスを吸っているんだ。
こんなふうに、代替物がなんらかの「根元の欲求」のガス抜きに使われているシチュエーションというのは、たくさんあると思う。
なんなら満ち満ちている。
フィクションを見たり読んだりするのも、ゲームをするのも、そうした「根元の欲求」の代替行為であると思う(敵をぶっ倒したり銃をぶっ放したり、大恋愛をすることは、日常ではそうそうできませんからね)。
代替物はとても便利なものだ。
手軽だしリスクも少ないことが多い。
なかなか満たすことができず、パンパンに充満した「根元の欲求」のガスを少し抜いて、楽にしてくれる。
でも、代替物や代替行為に溺れてしまって、当初の目的を見失うことには注意しなくてはならない。
それが本来、なんの代わりであったのか。
本当は自分は、何がしたいのか。
立ち止まってその大元を少し思い出しようとすること、大切だと思う。
ふぅ、書いたぁ……!
今日、かなり力(りき)が入ったな。
日常にあったことから、考えが膨らんでそれが文章となりて具現化すること、いいじゃなーーーい。
これ、日記の醍醐味かな。