日記(2024/9/6)

konuitbl
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公開:2024/9/6

 レジ越しに置いてある小さな鏡に蜘蛛の糸が張っていて、取ろうと思ったら、今日は晴れた日だからあまりになめらかに光ったので、そのまま見つめていた。

 

 ここ数日リハックの斎藤幸平と村上隆の動画を見ていたんだけど、タイムリーに地面師たちみたいな話をしていた。

 私は現代美術にも村上隆にも詳しくないのでそれらが好きでも嫌いでもないのだが、色々面白かった。村上は「私も実は愚かしい人間であるってことを理解したときに人って感動すると思うんですよね」と言っていて、私はそれは人間をすごく信頼している……! と思って、妙に感心した。私はそんなことないんじゃないかと最近思っていて、村上が言う「愚か」と私の思う「愚か」の内容が違うかもしれないからまあよくわからないんだけど、だって人間が自分が愚かであることに気づいたとき感動するんだとしたらもっと世界って良くなってるはずじゃない!? と思ってしまう。村上の考えでは感動するからといってそれを積極的に求めるわけでもないのかもしれない。「感動」については「度し難い自分の存在に落胆するのか、気がつくのか、色んな言葉がありますけど」と言っていた。

 

 なんか最近真面目すぎる。真面目なのは怖い。真面目に対してコンプレックスがある人もいるが、私はクソ真面目なことを言ってクラスをシーンとさせたことがあるタイプの人間なので、やはり真面目なのは怖い。でもだからといって真面目なことを考えるのをやめるとか、言わないようにするというのもやっぱなんか違うし、そうなるときっと「ずらし」が必要になってくるのだと思う。

 この、ずらしが下手とか、面白みがないという点において、私は非常に真面目な人間だ。しかし私の乏しい人生経験ではずらしが上手い人に会ったこともあんまりない。ずらしが上手い人と言ったら、まあ芸術家とか、芸人になるのだろうか。どっちも「芸」だ。

 もはや、「大人になる」とは「ずらすのが上手くなる」ということなのでは……? とさえ思う。

 昨日の日記を書いてるときに、嘘/真実を軸に「地面師たち」のラストについて書こうと思ったんだけど、これはあんまり面白い話にならないだろうなと思って、やめた。今までの私だったら、まあつまらん結論にはなるけど作品に沿って考えればこういうことになるだろうと思って(それは私がつまらないだけかもしれないが、それならつまらない自分が書けることを書くしかないと思って)そのまま書くか、書くことに詰まって諦めるかのどちらかだったと思う。

 それで昨日はどうしたかというと、もうそのつまらなくなりそうな書きかけはぶつっと切って、もっと書きたい別のことを書いたのだが、その一種の生真面目さを断てたことは自分にとって発見だった。それで、じゃあ自分が面白いと感じる話になるんだとしたらどうなるんだろうと考えて、具体的にはよくわからないがきっとうまくずらした話になるのだろうと思ったのだった。