2024年4日目(1/4

koromaritsuki
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大人の自由時間。一人で気になっていた「まどぎわのトットちゃん」を観に行く。二子玉川の映画館で見たのだけど、これは二子玉川で観るべき映画だったーーーー

背景画はすごく良くて、人物がどうかな?と思っていたけれど、段々慣れ、、というか話が良過ぎて気にならなくなった。あと、人間、というか子供の表情筋ってこう動くよね!といううまさ。

元々原作を何十回も読んでおり(活字中毒だった子どもの頃家にあった本、そうなるものが多い)冒頭小林先生登場だけで目から水が溢れ出してしまった。隣に座る子供を怯えさせてはいけないーーと我慢したものの途中何度か見られたよね。

二子玉川大井町方面、と書かれた古い大井町線。自由が丘駅前のロータリー、そこから伸びる商店街の突き当たりの今はピーコックのある場所がトモエ学園。そして九品仏へは、角のケーキ屋を曲がって呑川緑道(映画ではまだ川)沿いに歩く(トットちゃんと同世代の叔母が「私が結婚して越してきた頃は緑道は全部川だったのよ!」と言っていたな)。洗足池公園でのお祭り。全部風景が染み付いている場所なので街並みは変わっていてもどこなのかわかってそれだけでもとてもおもしろかった。

話の本筋は、小児麻痺の泰明ちゃんとの友情を主軸にしており、その他にも原作の良いエピソードもかなり組み込まれている。小林先生がとっとちゃんの話を午前中一杯聞いてくれたこと、なんにも話すことのなくなったトットちゃんが、ママの嫌いな襟の刺繍の話をするところ、汲み取り便所の「戻しとけよ」、電車の教室がやってくるところ。運動会で高橋くんが勝つところ。ここを抜き出したのはかなりいけてる。そしてロッキーのエピソードはない事で涙腺的に助かった。

さて、泰明ちゃん。泰明ちゃんのお母さんの心情は原作では全く語られていなくて(それはまだ子どものトットちゃんはしりようもないことだから自伝的な作品の一人称の語りには入ってきようがない)映画ではセリフなどではなく表情だけでお母さんの気持ちを映し出していた。これが余計な事ではなく、とても良かった。どう考えても今よりずっと普通でないことへの偏見が強かったであろう社会の中で障がいのある子どもを育てる親の苦労は、計り知れない。お母さんはいつもどこか寂しそうで、そして大きいお姉さんがいるという家族構成から年配の印象。泰明ちゃんの木登りチャレンジ(これも、えっよく誰もしななかったね?!って思うけど、子どものやらかす無茶、それをこえて同じ風景を見ることができた喜びの描写がいい、、、)の日に、よその子たちのように泥だらけになった服をお母さんが抱きしめて泣いているところ、よくこの視点を創作で入れたな…ただのお涙頂戴ではなく、母親の嬉しさ、それが嬉しいことへの切なさが画面からじわじわ染み出していた(号泣)

ただ、泰明ちゃんが自身の死を予感しているような描写からの翌日の訃報はやり過ぎだなと。実際は長期休み明けに泰明ちゃんがなくなった事が子供達に告げられていて、本人が予感して全てを呑み込んで、という描写はない。この描き方をしなくても、十分伝わる方法はあったし、ここまでの表現でそれは確立されていたのに…

泰明ちゃんのご葬儀があった田園調布教会からトモエ学園までトットちゃんが走るところ、そこで水たまりに駆け込んで前日の雨(泰明ちゃんと雨の中踊る)が乾いていない、トットちゃんの涙と水溜りと…という表現がわるくないかと言われればいいんだけどなんとなくモヤつきが残ります。

泰明ちゃんが貸してくれたアンクル・トムの小屋の奴隷の魂の自由の表現、トットちゃんのパパが軍歌の演奏を拒む時にその本の一節を朗読して決意する、そこからの幻想シーン。体が自由でない泰明ちゃんの愛読書がアンクル・トムの小屋であり、黒人奴隷も障がい児も差別の対象で、その本によってパパが多数派に従わないエピソードを絡めてきたのはよかったな…

小林先生は子どもの頃からあまりに読んでいるので自分の学校の先生のような気がしてしまう。子どもの話を視線をあわせて話半分ではなく聞くことの面倒さがわかる今、たくさんの生徒がいてもそれを怠らない先生の素晴らしさが余計身に染みる…海のものと山のもののお弁当は今私がお弁当を作る時なんとなく頭の片隅にある。ママはおかず上手なの!と自慢するトットちゃんとデンブが鼻息で飛ばないかな?!と心配する様子、原作がそのまま立ち上がってくるようだった。ママが小林先生に対して信頼を寄せている表現もナレーションさせたり大人の会話で言わせるのではなく表情だけであらわしていて、余計な装飾がなく、受けて側(未読でも原作ファンでもそれぞれの読み取り方でいい)に委ねられている。

泰明ちゃんを気にかけ続けている先生が、新しい電車の校舎を図書室にするところ、高橋くんの尻尾の話で若い先生を叱るところ、そして、君は本当はいい子なんだよ。トットちゃんが「トモエの先生になる!」と言った時の嬉しそうな顔。トモエ学園いい学校!!と歌う子どもの声をきく後ろ姿。もう、全ての教育に携わる人に見てほしいけど、(見とけよ〜!!)と思うような人が見たとして、どう感銘を受けるかは、、期待できないな、、、

話をきくこと、相手をうけいれること、子どものすることを、迷惑と思わないこと。これが先生の本当に素晴らしいところ。

トモエにくる子たちは、トットちゃんのように行動が大多数になじまなかったり、体の不自由さがあったり、おそらくアスペルガー気味だったり、今でいったら支援級に行く子どもたちの受け皿だったんだろうとおもう。そして、この時代に、親たちが子どもの特性をある程度は受け入れて学校を選ぶということは、一定の理解がある家庭で、問題を抱えながらもその点では恵まれた(この表現が正しいかはわからないけど)子供たちだったのだろうな…と思う。

実際泰明ちゃんとトットちゃんの家庭の描写だけでも相当ハイソサエティでありブルジョワの気配がする。

トットちゃんの家の朝ごはんはトーストにサラダに卵、銀製の素敵な調味料入れやバターケース、パパは朝からコーヒーの豆をひいているし、、(トットちゃんの寝室がまた可愛いのだけどここにパンダのぬいがいるのが良いのよね〜)そういった暮らしが戦争で蝕まれて装いも食べ物も貧しくなり家も取り壊され、、映画館にたくさんいた子供たちがこれを、済んだこと、ではなく、自分の暮らしの足元は本当にしっかりとしている?と思ってくれれば、、というのはさすがに望み過ぎか…

とにかく細かいことをあげればたくさんあるのだけど、黒柳徹子の他のエッセイで「パパはママの事が好き過ぎて帰宅する時前のめりだから靴の前だけすり減ってた」というエピソードがあり、それを示すようにご両親の仲睦まじさがふんわり描かれていたり、一年生のトットちゃんはうつ伏せで丸くなって寝ているのだけど、数年経つと仰向けでねていて子どもの細かな描き方がすごくうまかったり、幻想シーンや多分絵コンテ(エンドロールで流れる)の色合いがいわさきちひろに寄せられていたり…

原作を読み直して、さらにもう一回映画を見たいくらい。年始からスペシャルな映画体験ができた…

そのあと食べたカレー。

おいしいおやつよ、、、ぎうぎう。

青の鮮やかさが好き。

酒徒さんレシピ。

こどもに持たせた渋すぎるおせち弁当。