日々生活をしていく上で必ずしもその都度のその都度で選択をしなければいけない。その1つの選択をしたその時点で、もう他の選択はできない。それがその後どれほどの影響を与えるのかわからない。時間の流れとともに選択による数え切れないほどの分岐が生まれ、1つを除いて消えていく。
その選択をした理由を言葉で説明できることもあるが、ほとんどの場合はなぜそうしたのかわからないことが多い。わからないというよりいつのまにかその選択をしてしまっていたというのが正しいのかもしれない。だからかあのとき他の選択をしていたらどうなっていただろうかと思いを馳せることはほとんどない。その場合どうやって選択をしてるのかと考えてみると、ただの勘としかいいようがない。運がいいだけかもしれないが、その勘が働いたとき、ほとんどの選択はよい方向へ転んでいる。ただ勘とは言っても自分の中の強い好奇心が原動力となっている。あまりにも強すぎて思考の前に行動を起こしている、選択をしている状態。
こうやって書き出してみると、好奇心という衝動的なものに多くのものを委ねているようで少し怖い気もする。だけど、自分にとってはその衝動に背中を押してもらうことで無意識的に意識的な選択をしているのだと思う。だけどもよくよく考えてみると、全ての選択には無意識的であったとしてもこれまでの経験や思考、様々な文脈が複合的に作用しているわけであって、解きほどいていけば必然的にそれに至った要因というものが見つかるはず。その選択をした理由がただ単にわからないわけではなく、自ら理由を導き出すことを避けているだけなのでは。
いつからか全てのものを言語化しようと努力することをやめた。言語化する必要がないものもあるのではないかと。言葉にすることでこぼれ落ちてしまう何かがあるような気がするから。今の自分では掬うことができない何か。ふわふわとした漠然とした状態でそこにあり続けてほしい、いつか掬うことができるようになるその時まで、そういった希望に近いかもしれない。
好奇心というをあいまいで純粋なもの、自分自身を信じているからこそ、無意識的に選択をすることができている。自分を信じ続けている限りその勘は働き続けてくれるのだと思う。