まちなかの商業ビルをひさしぶりにぶっしょくした。洋服は春物であふれる、コーヒーショップからもれた香ばしさはフロアへひろがる。
平日の午後、まわりは高齢者や学校を卒業したばかりであろう子たちであふれている。老若男女、色えんぴつのようなあわく色とりどりな身なり。若さと老いが春の陽気にまざる。しずかな希望がわいてくるような、そんな気分がよびおこされる。
その一瞬、もう何年と会っていなかった友人がとおりすぎていった。結婚してママとなってからは、ほかの家族をきずいた友人たちとおなじように会う機会はめっぽうなくなった。
キャリアウーマン然としたかっこうで、まっすぐな視線を崩すことなく、ツカツカと歩きさっていった。あ、とおもい、こえをかけようとふりかえった。だけど、ためらった。
きはずかしさや、人ちがいを懸念したわけではない。彼女のいまあるセカイのなかへはいっていくこと、むりにかかわっていくことが野暮におもえたのだ。
じつは彼女だけではなく、最近になってそんなことがふえた。外出先でひさしぶりに会うひとたち。いままでならまよわずこえをかけていた。けれど、そこにかならずしも自分というそんざいが必要ではない。自分がそこへむりくりはいっていく必要はなく、ながれさっていくことをまなんでもいい気がしてきた。
みまもる、でもなく、そっとしておく、でもなく。ただ、そのままに、かたちをくずさず、そのままとおりすぎる。
そういうかかわりかたもあるはずで。
つながりかじょうなこのセカイで、せつぞくするでもなく、せつだんするでもなく。あいまいなデンパのなかをただよう。