こどものころ、それも5歳とか6歳とか、そんなときをおもいだしてみると、興味のあることにはなりふりかまわず手をだしていた。かえって興味のないことにはほんとうに興味をしめさなかった。興味のあること、こころがひきよせられたこと、そのせかいかんのなかで過ごすことがこのうえなくたのしかった。
ずっとそのなかにいることがここちよかった。手や体をうごかすことであたまのなかをめぐる想像や妄想はもっともっといろあざやかになっていった。そのかんどうを、ぼくはいちいち声にだしていた。ことばにならないことばで。それがまた想像や妄想をおおきくさせていくのだった。夢はひろがりつづけるばかりだった。こころがうごかされたものには、だれのしせんもめせんもはいらず、きにすることもなく、とことん手をだして、ついきゅうしていっていた。
ただ、それがからだがおおきくなるにつれて、たにんとかかわるはばもおおきくなるにつれて、かぞく、きんじょのひと、ようちえんからしょうがっこうへと、かかわるあつまりがふえておおきくなるにつれて、おとなしくなってきた。
たにんのめがぼくのなかにはいってきた。ルールがぼくのなかにはいってきた。それからというもの、ぼくはそれらがぜったいにただしいものだとりかいするようになった。あたまはよくなったかもしれない。けれども、じぶんのこころはよくわからなくなったようにおもう。
たにんを気にするあまり、じぶんのこころはおろか、じぶんのことすらわからなくなってきた。そして、たにんもわからなくなった。ますますじぶんもわからなくなった。そうしたら、なにもかもに恐れながらいきるようになった。そのぶん、みをまもるためのプライドもつよくなっていった。
あたまでっかちになって、なにもかもあたまでりかいしようとするくせがついた。そのぶん、わからないこともふえて、恐れはよけいにふえていった。しんけいしつさもでてきた。かんぺきさをもとめ、さいぶにこだわるようになった。
それはていねいさをうむようにもなった。
だけど、どこかなんでもかんぺきさをしらずしらずにもとめていたり、なんでもぎむをかんじるようにもなっていたり。たのしさがどこかへほうりだされてしまった。そんなかんじでおとなになってきた。
さいきん、ははがうんてんするじてんしゃのうしろにのっていたシーンをおもいだすことがあった。そのときのめにはいるこうけいに、いちいちおどろいていたじぶんがいる。なにもしらなかったころのどんよくさと、じぶんがものごとのちゅうしんだったころの、じぶんがじぶんのうごくりゆうだったころの、あのかんかくをおもいだしてみる。ふっと、じぶんをことなるじぶんとはなしをするじかんをもってみる。そんな、秘密のじかんをいっしゅんでももつことは、おとなになったじぶんのこころを温めることにもなるし、じつはたにんを温かくみることにもつながるかもしれない。
(だいぶおもいでを美化しながらかいているかもしれない、そんなおもいのなかでしたためる)