憧れる人に遭遇した話。
その憧れる人Aは、表現者で、歌を歌う人で、強い信念を持っていて、よく内省する人である。
その人は、偶然にファンに遭遇したとしても、声をかけられたり、写真を撮りたいと言われることが苦手だと言う。そして私も強くその考えに共感していた。一連の話を聞いていて「私は聡明なオーディエンスでありたい」と思った。まさか自分が遭遇するとも知らず。
あるタイミングで、ついにその人に遭遇してしまったのである。あまり詳細に説明したくないので状況はさておき、とにかく遭遇してしまったのである。
私は聡明なオーディエンスでありたかった。憧れる人に認知されたいとも思わなかったし、一緒に写真を撮ってほしいとも思わなかった。ただあなたのファンであること、翌週のライブ楽しみにしていますということ、そして以前にプレゼントを頂いたことがあったので、選んでくれてありがとうございました、ということを伝えたかった。
しかし、よく考えたらその人はその場所において「a」という1人の人間でしかなかった。歌を歌って舞台でパフォーマンスをするAではなく、aでしかなかった。
なのに私は彼女をただそこに存在する「a」として認識するのではなく、私の憧れる人「A」というラベルを貼り付けて、無理矢理に愛を押し付けてしまったのである。
聡明なオーディエンス(聴衆)ではなく、欲深いファンになってしまった。人は冷静ではない状態に陥った時こそ本性が出るとも言う。頭では「聡明なオーディエンスであれ」と思っていたけれど、私は「欲深いファン」にしかなれなかった。「その人に会えた、コミュニケーションがとれた」という事実を作り出したかったのではないか、と咎められてもNO!と言うことはできないと思う。利己的な言動だった。
たしかにその場所はある一定時間滞留できる場所でかなりクローズドな場だったからこそ、その人とコミュニケーションをとっても問題がないような環境ではあった。だが、Aでありaであるその人にとって、もしその時間が不快なものになってしまっていたのなら、それは愛の押し付けであり一方通行のコミュニケーションなのである。
その人は、仮にファンと遭遇して会話をする機会があったとしても、初対面の関係性として接したい、というようなことを話していた。その理想の関係性になれなかったような気がしていて、ただただ悔しくて申し訳ない気持ちになった。
人の好きという感情はとても強くて、何かを前に進める大きな力を秘めている。一方で、暴走して止まらなくなるような危ない一面も持っている。
例えば交友関係においても、好きという感情を一方的に伝えるのはあまりにも重い。少しずつ関係性を築きながら、ようやく好きという感情を告白したり、関係性を深めていくものである。演者と聴衆という関係性であったとしても、お互いの相互理解を求めるのは当たり前のことである。しかし、その時の私は相互理解には程遠いコミュニケーションをとってしまった。
そもそもコミュニケーションとは、だから今回のことをコミュニケーションと言うのも間違っている気がするが。
私はあの時どう振る舞うべきだったのだろうかと考えて行き着いたのは「聡明な聴衆」だった。立場をわきまえた適切な行動のできるオーディエンスとして存在するべきだったと。でもその人はきっと個人として接して欲しかったんだと思う。(ここまで全て私の憶測でしかないが)
ファンという装いを身に纏って憧れる人と接する方がよっぽど楽なのだが、もっと個人としてコミュニケーションを楽しんでいいんだ、と思った。それも利己的なコミュニケーションではなく、双方向のコミュニケーションでね。
皆さんはこんな機会があったとしたら、どう振舞いますか?どう振る舞いたいと思いますか?