散歩道の慣性

草間小鳥子
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ⅰ 誰もいない家

誰もいなくなった家にも

時々手入れがあるようで

二階の小窓の開く日がある

なにもかもが慌ただしく

ぷっつりと突然で

空っぽのガレージを風が渡り

出しっぱなしの遊具は色褪せる

その家に差しかかると

なぜか早足になった

もう誰も追いかけては来ないのに

外された表札の

石塀の窪みに影が溜まる

まなざしでいっぱいの小窓は膨らみ

不在の一家、そのとりとめのなさを

いっそう色濃くかたどるのだった

葉末からあばかれてゆく日ざし

午後の巡回と集団下校

熟れた柑橘が

乾いた土に落ちる音

 ⅱ 遊水池前交番

遊水池のそばの警察署では

初夏のよく晴れた一日

職員総出でひまわりの苗植えをする

「これも市民に対する我々の義務ですから」

つるりとした顔の若い警官が笑う

ひまわりは

交通事故死者数をかぞえる掲示板の前で

うつむきかげんに咲くだろう

制服を着た犬のシールをもらう

 ⅲ 児童公園

離島の孔雀の飼育係だったと話す

賭け事好きの叔父は

ぼろぼろの袖で

人口池のフェンスに身を投げ出し

磔刑みたいだった

枯れた睡蓮の葉を指さし

「見たものを汚いと思うのは

見るものの心が濁っているからだ」

そう言って

笑うか泣くかして

翌朝 つまらないことで逮捕された

鳥には鳥の言語があるという

連れられてゆく叔父は

遠い島の印度孔雀のまなざし

 ⅳ 歩道橋手前メゾネット

生垣も塀もないから

丸見えの庭 むき出しの暮らし

水通しされたちいさな衣服が軒に揺れ

風車ははたはたと回った

やがて人工芝は

やわらかな足の裏を刺す

安物さえもまぶしい日々が

ひび割れた舗道を照らしていた

ある春の晩

夜露に濡れて光る庭に

犬がいっぴき

しずかにすわっているのを見た

とっぷりと暮れてなお風はぬるく

やわらかく重たい闇が

獣の輪郭をおぼろに溶かす

犬がいっぴき

しずかにすわっているのを見た

カーテンの隙間から

細くもれる灯りに照らされ

ひっそりと

夜の秩序を裏切っていた

ちいさな自転車のサドルが濡れている

留め具の錆びた風車

安物はそれなりに安っぽくなり

時は光を奪うものと知る

もう思い出せない

あんなにあたたかくさびしい春の夜

あれはほんとうに犬だったのか

なぜわたしは

ひとりきり舗道に佇んでいたのか

あんなにあたたかくさびしい春の夜

「わたしもまた

かつてこの場所に住み

そして暮らしを手放した者です」

@kotoriko
詩人の草間小鳥子です。