2024/01/20 新年一発目の映画として「みなに幸あれ」を鑑賞しました。
ふだんから特にホラーを好む気性ではないのですが、『地球上の幸せには、限りがある』のキャッチコピーに惹かれて見に行きました。あとこの宣伝で使われてる古川琴音さんの顔、いい……。アタリの匂いがしませんか?今年はアニメばかり見ず、実写映画もみて見識を広げよう、といった感じです。
幸せと不幸の総量は同じだとか、自分の幸せの分誰かが不幸を請け負っているとか、そういう言説よくありますよね。
そういうテーマを扱ってるなら、自分でも興味持って見れるかな?と思って見たのですが、なんと観念的な映画なんでしょう。
村があり、そこでホラー的事象が起きるのはそうなのですが、
この世界において「逃げる」とか「警察に行く」とか、そういう手段は意味がないんですよ。この事象とか、それに関してのシステムを解き明かすこと自体が目的ではないからです。ただ、それを鑑賞した人間が汲み取れるかっていうと、あんまり親切な導線があるとは言えないですよね。そこは改善した方がいいと思います。あとシステムについて描写しないなら祖父や祖母がなぜそうせざるを得なかったのかを部分的にでもいいから考察できる描写が欲しかった。
映画の登場人物も、名前がない。孫、祖母、祖父、幼馴染……。明らかに地続きに鑑賞者と繋がっていることを意識した設定だと思います。他人事ではなく、貴方の世界だよと。
誰かを助ける、という選択ですが、もし通学・通勤時に困っている人を見かけたらどうしますか?助ける。助けない。あるいは助けるという選択肢を思いついても、学校や会社に行くのに間に合わない、と判断したら助けない人も居るでしょう。そういった「助けない」理由も、状況によって変わるわけです。もっと極端にすると、助ける可能性があるかもしれない人がいても、そこで天変地異や通り魔などの外部要素が加わると助けない、置き去りにする、生贄に捧げる、みたいな感じで普段は絶対取らないであろう危うい選択肢がどんどん出てきます。
主人公は、「優しさ」を持っていますが、それは自分の立場が安定しているからこそ発揮できるもので、その立場がなくなってしまえば発揮できないというわけです。というか人間は基本的にそう。
この作品は、驚かすぞ~みたいな気があんまりないのですが、(たぶん見せ場のシーンをいくつか作ってから間をつなげてる、パンフにもありましたね。)じゃあどこで恐怖を描写してるかって言うと、主人公は既に「システム」に組み込まれていて、もう逃げられないのです。そして主人公は幼いながらに知っていたけど知らないフリをしていた。そして「幸せ」を享受していた。
「当事者」である彼女は、警察に縋っても物理的に逃げても無駄なのです。逃げても無駄だという台詞は、そういうことなんでしょう。この村の外に同じ仕組みがある、というよりはどこに行っても『そういうの』からは逃げられないよというメッセージにも取れるかなと思いました。考えすぎでしょうか?
なんにしろ、幸せを享受することに躊躇いがなく、あらゆる理不尽に「どうして自分が?」「何も悪いことしてないのに」と考えるタイプは、この映画を見ようとは思わない気がします。幸せは椅子取りゲームですから、私たちは常に何かを奪いながら生きてるんでしょうね。にしても日本の映画ってどれもメッセージ性強いですね。思想を感じます。何故なんでしょうか。
下津優太監督の次回作、楽しみにしてます。絶対スゴいの作ってくれる。きっとこの作品も過去を振り返る時にその一部になるから……。