第1章-p.101
「家族生活の恐怖」だとか、潮だまりで想像にふけるナンシーの箇所を読んでいると、自分のことを思い返さずにはいられない。幼少期のわたしは家や幼稚園や学校から窓の外を見ているだけでも、外なんか見ずに自分の指と指を動かしているだけでも、想像にふけり、それがいちばんの遊びだったように思う。大学時代や働きはじめてからは、新幹線や高速バスなどの車窓で想像にふけることもできるようになったが、楽しい想像もあれば、しんどい想像も多くなり、今では新幹線の発着音が苦手になった。
しゃがみこんで、岩の側面にゼリーの塊みたいにくっついている、ゴムのようにつるつるしたイソギンチャクに触れてみる。想像のなかで潮だまりを海に変え、小魚をサメやクジラに変身させ、日差しを手でさえぎってこの小さな世界を巨大な暗雲でおおい、神さまになったつもりで、無数の無知で罪のない生き物に闇と荒廃をもたらしたり、ぱっと手をどかして陽を射しこませたりした。海を出れば、縦横に縞目のはしる白浜があったし、房飾りのような鰭をもち、籠手をはめたような手をもつ、奇々怪々な海獣が悠然とうろついていて(と、彼女は潮だまりから想像をさらに広げていった)、岩がちな山腹にあいた大きな裂け目へとしのびこんでいく。と、こんどは潮だまりから心もち目をあげ、海と空をゆらめくあの境界線に、水平線上で蒸気船の煙にゆらめく木々に、視線をさだめていると、荒々しく打ち寄せてはきまって退いていく波の力のせいだろうか、魅入られたようにぼんやりとし、あの海の涯てしなさと、その汀に咲くこの潮だまりの小ささ(それはもとの大きさにもどっていた)、そのふたつを感じるうち、あまりの感覚の強烈さに、なんだか手足を縛られて動けなくなる気がし、自分の体が、自分の生命が、それどころか生きとし生ける人々の生命がみんな、こんりんざい無に帰してしまうような感じにとらわれるのだった。そうしてナンシーは潮だまりにかがんで波音に聴きいりながら、じっと想像にふけっていた。
第1章 pp.97-98
曇天で明度も彩度も低い緑のなかに、徐々に色づきはじめた柿を見かけるようになってきた。夏の新緑は光が強すぎて居場所がないと感じる。秋冬のすこし枯れた緑や暖色が目にやさしくて、自分の温度感とあっていて好きだ。柿はやく食べたい(柿の種ってゲンゴロウみたいだよね)。今は1日おきくらいで梨を食べている。梨の産地が近いので、山を越えると(前にも書いたがどこへ行くにも山を越える)農家直販の小屋が10mおきくらいで道路わきに並んでおり、今の時期は朝早くから行列ができている。我が家はよく行く産直や道の駅でてきとうに買っているが、どれもおいしい。人生でいちばんおいしいと感じた梨のエピソードがある。たしかワクチンの副反応で40度近い熱があったときに、何か食べたいのにゼリー的なものがちょうど切れていて、お粥などを作れる状態でもなく、しかし梨だけがあったので、今思うとよくあの状態で包丁を握ったなと思うが(家にはわたし1人で、ほとんど立っていられなかった)、そのときに食べた梨が比喩ではなく本当に「生き返る…」という感じ、あの果汁のみずみずしさと甘さが全身に沁みてゆく感じが忘れられない。それまではどちらかというと梨よりりんご派だったが、これ以降梨がより好きになった(でも加工品の梨味は好きではない)。最近食欲がないタイミングが多いため、梨にとても助けられている。それにしても本当に食品の値上げが厳しくて、以前は真綿で締められているという表現をよく聞いたが、今はそんな状況をとっくに過ぎていると買い物のたびに思う。
先月の猛烈片付け欲求が戻ってきて、過活動?過集中?とのコンボにより(無限に「もう一回遊べるドン!」)、予定のある日はいつも予定が終わり次第くたくたで休むのだが、今は時間があれば体が疲れていてもひたすら片付け作業をやっている。そんなに片づけるものがあるのか?と思われるかもしれないが、いわゆる実家(地方の二世帯住宅一軒家)には物が無限にある。実家に戻ってきてから大掃除をいちおうやっていたにもかかわらず、自分の物も無限に出てくる。今は古紙分別にはまっていて、めちゃくちゃ紙類の選別をやっている。中高の模試の結果とか試験の問題とかが山ほど出てきた。
この片付けには過去の自分を切り捨てたい欲求の他にもいちおう目的があって、4月頃から手帳の「今月やること」リストにメモし続けている、本棚の移動と本の整理をやりたいのだ。最初は自分の分だけのつもりで、それならこれだけ掃除の脱線をしていても(急に予定外の床の雑巾がけをしたりとかエトセトラエトセトラ)そろそろ片がつきそうだが、長引いているのは母の本の整理もしたいからだ。母はわたしよりずっと本を読むひとで(国内ミステリ好き)、それなのに決まった本棚がない。雑多な収納棚に無造作に詰まれていたり、なぜここに本が?という場所に埋もれていたりと、家じゅう散り散りになっている。理由は明白で、母ひとりの部屋がないからである。ドレッサーやクローゼットのある部屋未満のような場所はあるのだが(しかし実家はものが増殖するのでさまざまなもので溢れている)、間取り的に使えるはずの部屋はあるのだが、引っ越してきた当時から母のためには使われていなかった。そして今は物を増殖させる元凶の同居血縁の物だらけで、あ~~~~~~~書きたくないのでこれはもう書かない。別の血縁が家を出たため今は季節ものの家電や布団置き場になっている部屋があるので、そこにひとまず母のための本棚を作るのが今の目標である。もちろん自分の本棚の整理もだ。武川さんの新刊をはやく読みたいんだよ~!
そういえば昨日出かけた帰りに道路わきを駆けてゆくリスを見た。遠目からでもしっぽがふっさふさだった。あと散歩中の犬遭遇率が高い。犬、すばらしい。犬、ありがとう。
おわり
ヴァージニア・ウルフ、ジーン・リース、鴻巣友季子訳、小沢瑞穂訳『灯台へ/サルガッソーの広い海』、世界文学全集Ⅱ-01、河出書房新社