『灯台へ』第1部-p.23
※ヴァージニア・ウルフ、ジーン・リース、鴻巣友季子訳、小沢瑞穂訳『灯台へ/サルガッソーの広い海』、世界文学全集Ⅱ-01、河出書房新社
気まぐれに読書記録をつけてみようと思う。文庫発売前までに読み切ってたらすごいな〜みたいな感じです。『灯台へ』については、たしか文舵に引用されていた部分と、『マリアビートル』で檸檬が蜜柑に説明していたくらいしか事前知識はない。灯台へ果たして行くのかどうかも知らない。と思って読み始めたら、早々に父親が息子の期待をばっさり切り捨てやがった。タンズリー青年はだんだん愛らしく読めるよう誘導されてゆくのだが、「憎たらしい小男」ってタンズリーのこと? 父親ともども夫人にめっちゃ毒づかれており、灯台での灯台守の生活をわびしいとかなんとか見ている場合ではないのでは、という気になってくる。というか、別に灯台で生活していなくても人間同士での生活ってそういうものなのかも。と考えてしまうのは自分に引き寄せすぎだろうか。
灯台というモチーフがかなり好きなのだが、一方で、まったく異なるベクトルで好きなのがロバート・エガースの『ライトハウス』だ。灯台守の単調な生活を哀れむラムジー夫人のくだりに、反射的にウィンズローとウェイクが頭に浮かぶ。雑誌の差し入れがあったところで、彼らはきっと破綻するのだろう。ウェイクも灯台の光に惹かれるウィンズローの期待を裏切り続ける「父」だった。ラムジー夫人のバッグを持って誇らしくなるタンズリーのように、ウィンズローもウェイクに認められたがっていた。あ、あとは萌えの話になるので大人しくAO3に行きます…(世界中のファンフィクション作者たちよ、ありがとう…)
ドラマ『恋せぬふたり』をまだ見ていない。制作発表時から気になっていたし、放送中はTwitterが居場所だったので感想もよく見かけていた。放送後もたびたび話題になって感想や批評を見かけていたし、NHKオンデマンドに登録したときにはリストにも追加した。それでもずっと再生ボタンを押すことはなく、最近再放送が始まった。HDDの容量の問題もあるが、録画設定はしなかった。見逃し配信でも視聴可能だが、一挙再放送のサムネイルをしばらく眺めては迷い、別の番組のために画面をスクロールした。
現時点でわたしは自分のことをAスペクトラム上のアセクシュアル(+いろいろ)(わたしはLGBTQ+の「プラス」をその他の意味で使っていない。詳しくはまたどこかで書く)だとアイデンティファイしていて、かなりしっくりきているし、名前が存在することに安堵感もある。別々の経験や事情を持ちながらも、近しい困難を共有できるひとたちが存在することにも勝手ながら助けられている。そして幼い頃からフィクションによって生きながらえてきた人間としては、フィクションの中にもさまざまなAスペクトラム上のひとやSAMに当てはまらないアセクシュアル、カテゴライズはしていなくとも経験が重なるようなひとたちが、たくさんたくさん、当たり前に登場してほしいと思っている。それでも『恋するふたり』が見られない。今現在のわたしが、生活のルーティンになっている朝ドラや大河以外の映像作品に食指が動かないというか、集中力の問題なのか、興味関心の範囲が狭まっている時期なのかは定かではないが、そういうことも相まって余計に見られない。いや、それは言い訳かもしれなくて、本当はとても見たいのだが、作品に落胆する可能性に怯えている。アロマやアセクが当然のように、マジョリティのためではなく当たり前の存在として登場する作品が圧倒的に少ないことが問題だというのが大前提とわかっていても、落胆するのがとてもこわい。加えて、自分が「本当の」アセクシュアルではなかったら? という不安が頭の隅から主張してくる。「本当」を証明する必要なんてないし、そもそも誰にもできないことはわかっている。今まで映画やドラマをまあまあ見てきて率直に悪態をついたことも多々あるくせに、ドラマ1本見るか見ないかで数年ぐるぐるしている。これを書いているうちにちょっとでも見る勇気がわくかなあと思ったが、まだ時間がかかりそうだ。本ならいけるだろうか。ノベライズがあるようだし、別の作品で、フォロワーさんが読んでいた孤伏澤つたゐ『ゆけ、この広い広い大通りを』も気になっている。
おわり
※自分のための自分の日記なので説明を省いています。一部ですが参考として以下載せておきます。
ジュリー・ソンドラ・デッカー、上田勢子訳『見えない性的指向 アセクシュアルのすべて』、明石書店
アンジェラ・チェン、羽生有希訳『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』、左右社
三宅大二郎、今徳はる香、神林麻衣、中村健『いちばんやさしいアロマンティックやアセクシュアルのこと』、明石書店