2024/7/27

koyoko
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昨晩は増えた薬のせいか寝る前にぼんやり具合が悪く、冷えピタを貼って寝た。季節や体調にかかわらず冷えピタは学生時代からストック必須で、冷蔵庫に絶対入っている。頭寒足熱が効くのか定かではないが、寝るときによく頭を冷やしている。それでも何度か中途覚醒しいつも通りまだ薄暗い頃に目覚めたが、これまた薬のせいか目覚めた瞬間頭の中が動き出す感覚は薄く、うとうとできたのでたぶん休めてはいるのだと思う。今朝はめっちゃキジバトが鳴いていた。

雨が降る前に散歩に出かけた。山は蝉の鳴き声が直で聞こえてくる。道中で顔見知りになった(つもりでいる)猫に挨拶として撫でたりお尻を叩いた。ごろんごろんしていたのでまあまあ接待できたと思っていたのだが、帰り際に何か文句を言われた。犬には慣れているつもりだが、猫は本当にわからない。でも構ってくれてありがたい。そのあと飛んできた蝉と衝突した。

塩釜市杉村惇美術館で開催中の、若手アーティスト支援プログラムVoyage2024 土井波音展「汽水の幽霊」、渋谷七奈展「光源の二輪」に行ってきた。審査員の1人の小田原のどかさんが告知をしており、昨年はじめて行って楽しかったので今年も楽しみにしていた。めずらしく間を置かずにしずネットを書いているのは、これらの展示にえらく感動しめちゃくちゃ楽しい時間を過ごしたからだ。念のために書くが「たのしかった~~~」の文章なので、レビューは期待しないでほしい。

先に渋谷七奈の「光源の二輪」を鑑賞した。奥の展示室は、入ると斜めに仕切りがあるだけの開けた空間で(展示によって変わる)、美術館に面する竹林が窓の外を埋めていて落ち着く。渋谷の展示は、東日本大震災に関する自身の記憶を題材とし、詩や短歌などの引用とともに、アクリル絵の具や鉛筆や木炭といった画材を用いたドローイングが中心だ。まず作品に関係なくて申し訳ないのだが、静かな空間で大きい絵を存分に眺めるってなんて素敵なことなんだ~~~!(大声)真っ先にその感覚に浸ったのは≪おはよう と おやすみ≫という作品で、花のような星のような芽を出した種子のような、はたまた涙を浮かべた目のような大小無数のイメージが、揺らぐ筆致で、絵の具の色味や鉛筆の線と混じり合いながら、大きなキャンバスに広がっている。振り向くと、ポスタービジュアルにも使われていた、ポートレートのような≪東に生まれて≫と、今までの不安定とも言える筆致に対して、鋭い針葉樹林のような津波のあとに残された瓦礫のような≪土のすみっこ≫と≪宇宙のすみっこ≫が、逢坂みずきの短歌と宮沢賢治の『春と修羅』の引用とともに配置されていた。(作品はこれ以上取り上げないけど全部よかったです)

わたしにとって絵(や芸術)と対峙するということは「わからなさ」を受けとめることであり、「「わからなさ」を受けとめてよい」と受け入れてもらえるような体験である。もちろん作品制作には作者の意図や綿密な計画などがわたしには想像できないほど練りこまれてあり、作者の生きてきた時間や経験が含まれており、それらを無視するということではない。とうてい無視はできない。けれども、人間は会話や行動をもってしてもコミュニケーションには齟齬が生まれるものだ。(だよね…?わたしだけか?)そういう人間に対する「わからなさ」が絵(や芸術)の前では普遍化され、感覚を全開にして浸ることができるというか、わからないけど自分に置き換えるとこうかもしれないだとか、過去の記憶と今この瞬間の感覚が混然一体となるとでもいうのか、文字にしていたら余計にわからなくなってきたけども、そういうカオスの中に思いっきり身を置くことが許されていると思えて、とてもたのしい。たのしいし、かなしいし、不安になるし、制作意図に共振してぐちゃぐちゃになったりするし、でもそういった感覚が喚起されることが許されている場だから、とても居心地がよい。現実の社会で感覚が飽和しているのはただただ「生きづらい」。

土井波音の「汽水の幽霊」はサウンドインスタレーションで、開始時間までグッズを見たり板目がつややかな廊下に並ぶフライヤーをぼんやり眺めていた。こちらの展示室は仕切りのある状態しか見たことがなかったので、開けた部屋にアンプやスピーカーが輪になるように置かれているだけでなんだか新鮮だった。自分たち以外に誰もいなかったので、スピーカーの輪の中に椅子を置いて座った。真っ白な部屋が、次第に不思議でありながら聞き覚えのある(記憶に染みついている)雑踏の音でいっぱいになる。土井の作品は世阿弥の能「融」を参照して表現される。音に身を任せながら土井の文章を読む。本作では仙石線が過去-現在-未来の時間軸と重ねられ、また美術館の最寄り駅である本塩釜駅が土井自身の時間軸や石巻-仙台という場所を結び付け、土井のさまざまな経験が融合したりばらばらになったりまた融合し、幻想空間を作り上げる。

途中で椅子を窓際に移動し、赤い屋根に雨粒が落ち続ける様子を眺めながら作品に聴き入っていた。すでに書いたように、カオスの、「わからなさ」の真っ只中に思う存分身を委ねることのなんとたのしいこと(ひらがな表記の「たのしい」だ)。わたしにとっても本塩釜駅は実家と高校の、また実家と大学(埼玉なので新幹線のために仙台駅へ向かう)の中継地点だった。土井自身なのか誰かわからない話声、おそらくロンドンのクラブの音楽、すべてはじめて聴くものばかりなのに、自分の記憶が波のように押し寄せる。今月は鎌倉殿を見返しているため実朝の「大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも」が頭をよぎる。さらに幻想へ誘うようにおだやかな電子音が流れ、感覚が開かれることでかえって無になる。無になっているのに、雨粒に叩かれる屋根のように記憶が次々と刺激されながら、現実と幻想の洪水に揺蕩っている。約18分のインスタレーションはあっという間に終わってしまった。

足の自撮り。淡いブルーのジーンズに黒いサンダルを履いている。

つたない言葉で文章を書いていると何書いてるんだろ…と自分が自分に囁くが、ここは自分のための自分語りの場なので別にいい。ここまで読むひとがいるのかわからないが、不特定多数に見られると思って文章を書いて公開するくらいが自分の中で焦げ付かなくていい。(自分へのはげまし)

今朝はめったに甘えない犬が自分から人間の足を枕にしてくれたり(直後に邪魔だとよけられた)と、雨だがよい1日だった。しかし山形や秋田方面の豪雨被害が心配だ。また強い雨が降るというし、あまり報道されない地域にも支援が行き届くか心配しないように政府は仕事をしろ~~~の怒りで締める。オリンピックも何が平和の祭典だ。

おわり