台所の窓を開けるとご近所さんの畑が目の前に広がっている。雨の後は、苗の成長が目に見えてわかるのでおもしろい。それでここ3か月くらい、頭の中に「雨後の筍」の言葉がずっと居座っている。意味を調べたところ、成長著しいことを指すのではなく、似たような事柄が次々起こることを指すため、わたしの発想は誤用といえば誤用なのだが、窓を開けて緑がわっさわっさと伸びているのを見ると「雨後の筍 うごうご」と頭の中が騒ぎ出し、家事をしながら「うごうご」と1人で呟いている。ちなみにその畑の奥に実際に竹林もあって、雉がよく鳴いている。先日、育てているアボカドを外に出して水やりしていたら、雉とたぶん目が合ったので驚いた。
小学生ぶりに髪をショートカットにしたのだが、洗髪とドライヤーがあまりにも楽で感動した。今までは肩くらいのボブで、自分の毛量と管理のしやすさではたぶんいつものボブがベストだと思うが、この楽さを知ってしまったら戻れない…と怯えている。美容院が苦手なのでこまめにメンテナンスに行くのが億劫なのだ。いっそ刈り上げようかなとも考え始める。
さて昨日は通院日でカウンセリングもあった。曇りだろうとぼんやり思い込んでいて自室の窓を開けたまま家を出たら、雨が降り始めたので自分に呆れる。カウンセリングでは、人間関係わからないという話をものすごくつたない言葉を連ねて話してきた。相変わらず泣きながら話すため、テーブルに置かれたティッシュに何度も手を伸ばしては、ぐちゃぐちゃに濡れたティッシュを丸めてごみ箱に落とした。終わったあとトイレで鼻水を豪快にかみながら、映画『対峙』での部屋のセッティングのシーンを思い出した。自分の時間以外のカウンセリング室の様子はわからないが、テーブルの上の、絶妙にクライエント側に寄りすぎないティッシュの配置に、そういうものなのかな…と勝手に思い巡らせる。たぶん考えすぎだと思う。
話すときにどもるのがやはり気になる。以前の比較的なめらかに話せていたときがまるごと「素の自分じゃない」というわけじゃないと思うが、演技というか擬態の部分が大きかったように思えるので、生活の困難を受け入れようとしている現状とも合わせてどもっている今の方が自然なように個人的には感じる。一方で、どもる自分に対して「困っている演技をしているのでは?」と自分が疑いをかける。あらゆることに自信がない。昔から接するひとに必ず「もっと自信をもって」と言われてきたが、本当に自信というものがわからない。最近自分は達成感がその場その場で完結して蓄積されにくい気がすると感じているが、他のひとはそういう過去の達成感などが積み重なって「自信」というものになっているのだろうか。わからない。こんなので社会復帰できるのか不安すぎる。
好きな彫刻家の佐野美里さんの展示が来月あるらしく、行きたくてそわそわしている。現在県立の美術館が閉館中で、大きめの文化施設や庭園に飢えている。漠然とでかい絵や写真が見たい。そういえば年度末に恩師の退職記念の講義に誘われていたのだが、調子悪い真っ只中であっさり断ってしまったのを思い出し、もったいないことした~とじたばたする。シュルレアリスム映画祭も地元でやってくれないかなあ~
明日はできれば散歩したい。おわり。