2024/7/4

koyoko
·
公開:2024/7/5

通院日だった。朝は家じゅうの窓を開けないと気が済まないのだが、いつも山の方から寒いくらいの風がそよいできて(そんな感じだと勝手に思っている)肌寒く思いながらも換気をする。そうすると犬がのそのそ起きてきて、網戸ごしに外の情報収集に勤しむ。しかし今朝はまだ涼しいが熱くなりそうな雰囲気の風で、ちょっと憂鬱になった。電車も遅延はなく道中も慣れてきて余裕の到着だったが、普段より待ち時間が長めだったためちょっと緊張が強まる。あんまり寝れていなかったので、寝る前の安定剤が増えた。わたしは結構病院の施設にも担当医にも慣れてきたつもりなのだが、傍からはそう見えないのか、心配されてかえって慌てる。最近の自分の感覚としてはおどおどしたりどもっている方が自然な気がするのだが、どうなんだろう。

そのあとは久しぶりにお友達と待ち合わせした。「友達」じゃなくて「お友達」表記なのは個人的に重要なポイントである。なのではりきってがまくんとかえるくんのTシャツを着ていった。今思ったが、今週あんまり寝れていなかったのはこの予定に良くも悪くも興奮ぎみだったのでは…?小学生か…?

調べてもらった自家焙煎珈琲のカフェに向かい、カレーを食べた。人参と紫キャベツのラぺが付け合わせになっていて、酸味が強くておいしかった。セットのカフェオレもおいしかった。あとはじめてコーヒーレモネードを味見した!言われているほどまずくなかった。違う柑橘とか自分好みの味を探してみたくなった。

会う約束をしてからお友達にフェミニズムの本を貸してと言われていたので、うれしくてテンションが爆上がりして個人セレクトしたフェミ本をプレゼントし、最初に手に取りやすそうな家にある本と、テンション爆上がりの勢いで作ったブックリストを押し付けた。な、ないよりはあった方がいいはず…たぶん…「フェミニズム」とか声に出してひとに話したのってそれこそこの前のカウンセリングが初めてな気がするし、ちょっと浮かれすぎていたかもしれない…ごめん…(ここで言い訳をするな)

植物を見たりして暑かったが楽しい1日だった。付き合いの長い相手だが、お友達に会ってへまをやらかさない人間の形をやれるのかどうかかなり心配だったが、おそらく杞憂であったと信じたい(信じたい…)

話は変わるが『当事者は嘘をつく』を読んだ。(読了した日に感想書こうか迷い下書きに残っていたので続けて書く)

 結果として、私にできたのは性暴力被害者としての「自分語り」でしかない。「自分語り」とは、自分自身をひとつの型にはめることだ。

 自助グループに参加した人たちは、みな同じようなライフストーリーを語るようになるという。トラウマ、回復、社会への参加。型にはめられたようなストーリーに、外部からやってきた人は、驚いたり、退屈に感じたり、ときには気味が悪いと思ったりする。

 でも、当事者にとってはその「語りの型」こそが必要である。私も、多くの語りの型を変遷してきた。この本で描かれる「私の姿」も、幾度そのような語りの型を通り抜けて整形された。もしかすると、その元の型を私の文章から探し出すのも面白いかもしれない。私の文章はパスティーシュのようでもある。

 私にとって「トラウマを負った自己」は、液体のようにぐにゃぐにゃとして捉えどころがなく、語ることすらできなかった。いつも不安で、誰かの目の前に立つたびに取り乱し、うろたえて胡乱な言葉を吐いた。

 自助グループでの活動は、自分自身の言葉を型に流し込み、寒天のように冷やし固めるような作業だった。仲間たちはわたしの似姿であり、鏡だった。愛し、憎み、嫌悪し、それでも必要とした。

 誰かの言葉は私のものであり、「私」の言葉は「あなた」のものだった。もちろん、私という自己は、常に型から溢れ出し、すべてを語ることはできなかった。それでも、少しずつ、私は「私というもの」の形を取り戻し、人前で「私である」ことができるようになった。

小松原織香『当事者は嘘をつく』p.198

液体のようにぐにゃぐにゃして語ることのできない自己、にウワー!と思った。わたしは性暴力サバイバーではない。今思うとハプニング的にトラウマティックな出来事が何回かあった、とたぶん言えるが、けして著者の経験とは同じではないし、こうして書くことや読むことすらも著者の語りを奪うことになりやしないかと不安になるのだが、と前置きしつつ、でもわたしも今自分を語るための型を今必死に求めているのだなと思った。わたしは学生時代も本を読むのは苦手で読むスピードも遅い方だ。そのわたし基準ではあるが4月くらいから猛烈に本を読んでいて、たぶん自分をまとめるための型を探しているのだと思った。もともとばらけやすく、まとめている器ももろくてガタが来ているのが今なのだと思う。

おそらくこの「ガタが来る」タイミングはわたしの人生では5年おきくらいに起きていて、たしか高校3年に上がる直前にも、自分自身がままならなくなり部活やめると言い出したことがあった。そのときに高校の校舎の棟と棟をつなぐ外の通路で、ぐずぐずと英検に落ちて…とか受験が不安で…とかよくわからない話を隣に座ってうんうん聞いてくれていたのも上記のお友達だったなと思い出した。センチメンタルになってきたけど(ちょっと泣いた)わたしって本当成長してないのな…新自由主義的な成長なんてくそくらえなんだが…が…

おわり!(容赦なく()をつけまっくているのは『あらゆることは今起こる』を読んでいる途中だからです。すぐ()つけがち)