最近、高屋奈月さんの「フルーツバスケット」を読んでいる。
主人公の透は成分の100%が優しさでできているような女の子で、昔の自分なら「こんな人間がいるわけない。現実味がなさすぎる」なんてひねくれた感想を持っていたんだろうけど、今はただただ眩しくて癒される。
利己的で醜い人間なんて、それこそ現実世界で嫌というほど目にすることができるのだから、物語の世界にまでリアルを追求する必要なんてどこにもない、とおとなになってから思うようになった。だけど一方で、こんな子は現実にはいない(そして、自分も間違いなくこういう人間にはなれない)んだということを改めて実感させられて、少し悲しくなってしまったりもする。
この物語の主要人物は、透を筆頭にみんな優しい。悪意を持って誰かを傷つけようとするような、ゆがんだ心根の人間は出てこない。……いや、ひとりだけいるけれど、この作風からすると、彼に関してもそうならざるを得なかった理由がのちのち明かされるんだろう。
いま全体の半ばくらいまで読み進めたところだけど、物語に入り込めているかというと実はそうでもない。
それぞれの登場人物が抱えている苦悩についてかなりのページが割かれているんだけど、核心となる設定が伏せられていたり描写が断片的だったりで、かなり読み手の想像に委ねる内容になっているのが理由なんだと思う。描かれていない余白の部分を頭の中で補完して、登場人物の苦しみを想像するということがうまくできていないのだ。読み手にかなりの想像力が求められるという点で難易度が高いお話だなあ、と思うのだけど、かつてとても人気があった少女漫画とのことなので、これはもう単純に私の想像力が乏しいだけなのかもしれないな、とちょっと落ち込む。
とはいえ、物語の結末が気になるくらいには楽しんでいるので、これからもゆっくり読み進めていこうと思う。