フーコーにインスピレーションを与えた師匠筋にあたるカンギレムの主著のひとつ。(訳者解説にもあるように)ものすごく稠密で硬質な隙のない文体が、最初から最後まで同じ調子で積み上げられていくので、訳者の努力にもかかわらず(固有名詞が多いのもあるけれど)すいすいと読み進められるような本でもない。
フーコーのように明確な解析格子を準備して、系譜論的な解読を…って感じではないけれど、テキストの背景に超高精細な読解の積み重ねがあり、その明晰な解釈を論理的に組み上げて成立している本であることはよく理解できる。
フーコーとの決定的な違いは、カンギレムは学(医学史)の内部から動かず、学説間の断層を剔出し、学の成立過程や成立条件、それが科学でありうるのかを判定しようとしていることだろうと思う。つまりフーコー流の系譜学とは全然違うものではある。が、フーコーが「異常」について問うたように、カンギレムは「正常」や「病気」について問い、わたしたちの常識的な見立てを覆していく点において、ふたりは共通している。
カンギレムはこの本で、病気という状態は「正常ではない」ということではなく、生物が病気という特殊な状態へ移行し、そこで新たな安定状態を得るということ、生物によるその「表現」であると考える。ゆえに病気は、量的測定によっては正常(=健康)から分離することはできない。血液や胃酸の成分分析、あるいは脈拍や血圧、生体電位の計測によってのみからは彼/彼女が健康であるかどうかの判断はできないのだ。ナポレオンの平常時の脈拍は40そこそこだったらしいが、彼が健康を損ねていたわけではなかった。
生命は、健康や病気という「表現」を行うのであり、通りいっぺんの量的分析を拒絶する。数値は問題なくても不健康な人間は存在する。生命には本質的に「規範」が存在し、ときに、より小さな自由度の別の枠へ規範が遷移する。それぞれの生命にはそれぞれの規範が存在し、額がそのすべてを記述し尽くすことは難しい。よって、生理学(人体の生理的な機序を研究の対象とし、患者が病気であるかどうかを判定するための基準を示す学)は単純に科学として存在しうるとは言い難い、という結論になる。
この『正常と病理』は、2篇の論文によって構成されている。前半は1943年に書かれた博士号取得論文、後半は1960年代に書かれた補遺的な論考。結論に際立った違いはないけれど、後半では医学の進展に従って得られた知見や実例が補足的に語られる。とくに重要なのは、アレルギーや自己免疫疾患のような生体の「誤謬」、遺伝性疾患、社会が生体の規範に与える影響などについて述べられている。フーコーの『臨床医学の誕生』に触れる部分もあり、とくに社会と生体の規範の関係などについては、フーコーからのフィードバックもあったかもしれない。
実は、手元に日本医学史学会編『医学史事典』(丸善)がある。3年ほど前に出版された事典。ほんとうにびっくりしたけれど、さっき固有名詞索引を眺めてみたらカンギレムの名はない。さすがにフーコーの名はあるにはあるけど、参考文献として『狂気の歴史』も『臨床医学の誕生』も挙げられていない。日本の医学史界では、カンギレムなどはまったく省みられていないということがわかった。まあ、「生理学は科学じゃない」と言っちゃうカンギレムに居場所は与えられないというのもわからんではないけれど。「医学史」とエピステモロジーの相性の悪さを痛感したことである。
