拒絶

koyomi
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公開:2025/7/21

さて、今朝みたいな朝をわたしたちはこれまで何度も迎えてきた。

そのたびにわたしが立ち返るテキストがある。モーリス・ブランショがド・ゴール第五共和制が成立してしまったときに書いた『拒絶』という短い論考で、これを読むと勇気が湧いてくる。

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私たちは、公的な出来事に直面して、自分が拒絶しなければならないのを知るときがある。拒絶は、絶対的で厳命的だ。拒絶は、議論を許さず、拒絶の根拠も明らかにはしない。声を上げぬ一人きりのものに留まろうとそうなのであり、たとえしかるべく公にされるとしても、拒絶とはそういうものなのだ。拒絶を示し、拒絶の力によって結びついている人々は、自分たちがまだ一緒にいるわけではないということを知っている。彼らからは、皆揃って一斉に主張を打ち出す時というものが、文字どおり取り除かれてきたのだ。彼らに残されているものとは、何ものにも還元しえない拒絶であり、厳格不動で確固たるこの否(ノン)の友愛である。それが彼らを結びつけ、連帯させるのだ。…

私たちが拒絶している対象は、無価値な事柄でも、どうでもいい事柄でもない。だからこそ、拒絶が必要とされているのである。私たちが諾わないのには理由があり、私たちが恐怖を感じる見せ掛けの賢しさがあり、私たちのあずかり知らぬ合意や和解の提案がある。糸は断ち切られた。私たちは、もはや共犯関係を許さないこうした歯に衣着せぬ物言いにまで舞い戻ったのである。

拒絶を示すとき、私たちは、侮蔑の念も高揚感ももたないが、できる限り名前ももたないある運動を通して拒絶を示す。というのも、拒絶する力は、私たちによって成就されるのでもなければ、私たちというただ一つの名において達成されるわけでもなく、きわめて貧弱な端緒から発してだからである。その端緒とは、まずもって話すことのできない人々のものである。今日、拒絶することは容易だとか、拒絶する力を行使することはほとんど危険を伴わないとか言われるだろう。それはきっと、私たちの大部分の人に当てはまるだろう。しかし思うに、拒絶するということはけっして生易しいものではないし、私たちは拒絶するということを学び、私たちの主張の一つ一つが今後証し立てていくことになるはずのこの拒絶という力を、厳密な思惟と慎み深い表現を用いながら無傷に保つ術を学ばねばならないのだ。