カヌレのことを、なに?と思っている。お菓子、いや食べ物の中で今のところ唯一、なに?と思っている。関東の平凡な田舎出身の私の、小学生の頃の泥くさい環境にはカヌレなんて洒落た言葉は存在していなかったし、県外の高校に通っていた時代はカヌレを好んで買うような友人も別にいなかった。大学生になって学部の友人と遊んだ帰り、なにかのビルの二階あたりに入っていた上品な洋菓子屋の陳列でそれを見て、友人がかわいいとかおいしそうとか声を上げている隣でなに?と思った。それ以来、ずっとなに?と思っている。
茶なのか黒なのか判断しにくい焦げた見た目をしていて、なに色?と思うし、丸なのか長方形なのか他の物に形容しにくい意図の掴めない形をしていて、なにゆえ?と思うし、食べてみたら食べてみたで硬いと柔らかいの中間くらいの優柔不断な食感で、どっち?と思うし、口の中でひとりでぬちゃぬちゃしていて、なにでできてる?と思うし、味も甘いのか苦いのかわからなくて、なに味?と思う。温めたほうが美味しいのか冷やせば美味しいのか、一緒に飲むものはコーヒーがいいのか紅茶がいいのか、この個体はカヌレ界だと大きめなのか小さめなのか、カヌレの全てがわからない。カヌレの全部をなに?と思う。カヌレに対峙している時間、私はずっとなに?と思っている。
かれこれ三年近くネイルをお願いしているネイリストさんが、唐突にカヌレの話をし出した。隣の町にあるここのお菓子屋さんのカヌレが本当に美味しくてたまらなくて、インスタもフォローしちゃいました、それで通販もやってるみたいなのでこないだ頼んだんです、届くのが楽しみで。案の定私はずっとなに?と思っていた。カヌレ、なに?って思うんですよねと言うと、心からカヌレを好んでいそうなのに一定、その感覚はたしかにわかりますと返してくれた。でもね、と、その後に反論が続く。それってきっといいカヌレに出会えてないからそう思うんですよ、一度このお店のカヌレ食べてみてほしいです、びっくりすると思うんで。ほら、抹茶味とかもあるんですよ。送料がちょっと高いけどこのカヌレを食べたら全部どうでもよくなります、と今時そんな直球なコマーシャルもなかなかないぞと身構えるくらいの勢いだった。
私は本当に食にこだわりがない。日頃の食事はレパートリーがあまりにも少なく、平日は大抵サラダにチキンだし休日は冬だと毎週鍋、暑くなるとしゃぶしゃぶをやっている。そもそも料理をすることは苦手ではないが嫌いだし、料理というと家庭的な雰囲気がするが、私のはそれより事務的な調理といった感じ。夫のほうが料理は好きで、私が当時の同僚から結婚祝いにもらった圧力鍋で肉じゃがや角煮なんかをよく作っている。夫がいるからまだ人間らしいが、一人のときはこれっぽっちも食に対する気力がない。コンビニで済ませるのであればましなほう。食べるという行為自体が面倒で一食や二食抜くこともあるし、さすがにと思ってなにかを用意しても行儀悪くキッチンに立ったまま食べる。旅行の話を人とすると「どこどこはなになにが名産で美味しいから食べないと」とか「その県ではこの名物料理が美味しいよ」などという会話が絶対に発生するが、食事にこだわりも関心もないので聞き流している。だから例えば、この店のあれを食べたいんだと言って何分も列に並ぶとか、この地方のあれを食べに行くんだと言って新幹線に乗り込む人とか、人ごとの目線で心底感心する。私には食に対してそこまでの熱量がない。
焼いた魚の塩味が足りないと言って母に食事の用意を下げさせ、作り直させていた父の表情と声が忘れられない。あの魚はあのあと、どうなったのだろうか。母が食べただろうか。それとも生ゴミ箱へ。父の横で私は何度もおいしいと言って魚を食べた。鯖だった。私がおいしいと言うたび、父の前でどういう反応をするのが正しいのかわからないといった風に微笑む母がいた。固く腕を組んで新たな焼き魚を待つ父。とっくにご飯を済ませて畳の部屋で相撲を見ている祖父母。寒いリビング。本当に心から美味しかった母の料理。
あんなに太鼓判を押していたから届いたものはさぞ美味しかったのだろうと思い、翌月、通販したカヌレどうでしたかとネイリストさんに聞いてみた。私が発言するまでカヌレなんて存在などすっかり忘れていたみたいな大袈裟な身振りでああ、あれ! と両手を叩いて、彼女は美味しかったですと感想を話してくれた。持ってくればよかったですね、加藤さんにもぜひ食べてほしいです、またすぐ通販すると思うんで、そのときは加藤さんの分も頼みますね。一ヶ月身につけていた真っ赤なネイルがオフされる。ネイリストさん自身は今回は、茶色なのか黒色なのかわからない、あまつさえ甘そうなのか苦そうなのかもわからない、ぬちゃぬちゃしたべっ甲ネイルを輝かせていた。