騒がしいインターネット

加藤み子
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 都会の喧噪に疲れて逃げ込む本屋とか、大人数での食事のあとにシャワーを頭から浴びて目をつむる夜のように、ひとりだ、と感じて心から安堵してその場が居場所になる瞬間がある。私にとってインターネットというプラットフォームは長らくそんなような形をしていて、逃げ出したい家庭や忘れたい現実から自分の心を一時的に守る場所だった。そこはいつでも寛容で、味方が多くて、なにかを零せばなにかが返ってくる期待が持てたホームだった。事実、私生活では誰にも話せないような悩みや趣味を共有できる仲間に出会えたり、承認を得て精神面が救われた過去がある。

 でも結局それは虚構であると、インターネットはリアルライフではなくリアルなライフを模して机上に組み立てたデジタル都市みたいなイメージをしたほうがより正確だと、実感としてそれを飲み込んだ頃には世界はすっかり様変わりしていた。いや、様変わりしたのは世界ではなく私のほうだ。私は、ネット世界に落ち着きを抱いていた頃の自分よりもずっと、社会人としての自分の自我を見つめたいと思うようになっていた。

 小学生の頃、私のその後の人生を変えることになる傑作フィクションに出会った。『ハリー・ポッター』シリーズを読み始めたのは(元)父親の勧めで、最近は原作者のトランス差別があまりにも酷くて距離を置いているけれど、私の人格形成の基盤になったとも言えるほど影響力が大きかった。私はあれをあくまで創作された物語として受け取っていたが、ここ数年思うことは、あそこで書かれていた「思想や言動が差別的で悪質な魔法使いが魔法界をどんどん侵食していき最終的には大きな戦争になる」という流れが、私が属しているこの社会でまさに今行われているという実感があることだ。例えばプロパガンダや陰謀論の蔓延。国民の主張を聞かない与党。ヘイトスピーチの放置。公文書の改ざん。行き過ぎた忖度。メディアや教育の場を支配する政権。差別撤廃のために動く者を冷笑する風潮。学校や病院等の施設の破壊。政治家の差別発言や暴力とそれに然るべき処分をしない首長。……

 かつて私が見ていたインターネットの世界に、これらのような非道で感情を荒らすものは存在していなかった。見ようとしていなかったのだ。フィルターバブル、エコーチェンバーという言葉がある。過去の私は社会と向き合うためにインターネットを使っていたわけではなかったから、結果的に自分が安心できる、心が荒れずに済む居場所ができあがっていて、そこを心地良いと感じていたのだ。その上、無意識にそこを全世界だと思い込んでいた。

 今はインターネットを居場所とは感じない。SNSをほとんどやっておらず、特に人との交流という意味ではほぼゼロに近い状態だから余計にそう感じるのだろうけれど、この私の手の中のデジタル空間を操作するべきは私自身と思うようになってから、姿勢が変化したように思う。今になって思い返してみれば、どうしてかつての私はあそこまで何も見ずに何も得ずにひとつの世界に閉じこもって、世界は平和だ日本は平和だなどと思えていたのだろう。自分の人生は自分でどうにかすべきもので、生活のありようも自己責任だと思っていた。趣味だけやっていればそのままずっと楽しく過ごすことができると思っていた。

 この間、人と喋っているときに冗談っぽく「野球と政治の話は人にしちゃいけない」と言っている人を見て、数秒間固まってしまった。皆、あまりにも政治の話をしなさすぎやしないか。世界の時事問題から目を反らしすぎではないか。職業上、オフィスでは毎日政治の話をするけれども、友達と会ったり他のコミュニティに行ったときに政治の話を持ち出すとほとんどの人が「でも自分の生活を大切にしないとね」などと言ったり話題を変えようとしたりする。いや、その「自分の生活」に政治は直結しているのだが? と思うが、例えそう返しても手応えのある返事は期待できない。どれくらいの日本人がパレスチナの状況を把握しようとしているだろうか。どれくらいの有権者が与党の暴挙を追って選挙に行くだろうか。どれくらいの大人がデモの情報を集めて参加したり、官邸へ意見を送ったり、情報の拡散や署名や寄付をしたりしているだろうか。

 今、私はそんな現実社会のためにインターネットを利用している。もうここは逃げ場ではない。生活のためのひとつのツールとして付き合っていきたい。現実を見つめて社会と繋がって、自分の言葉で声を出すための手法のひとつとして、インターネットに帰ってくる。

 最近はインターネットに触れていると疲れる。もう子どもの死体も記者の遺体も爆撃もリンもなにも見たくない、核の話だとか赤ちゃんもテロ組織員だとか本当に馬鹿げているし、こんな状況を止められない世代に生きていることの絶望で押し潰されそうだ。先日はネットで収集した情報を見てデモに参加してきた。友人の結婚式のあとにもデモに行ってきた。どれにしてどれにしていないかわからないくらいオンライン署名もしている。毎日のように政府に意見も出している。インターネットでもはや戦っているようだ。安らぎをと思い好きなアーティストの情報を追うと、そこでも人種差別や女性差別にぶち当たり、性暴力に対処しない会社にも向き合うことになる。疲れる。ボロボロだ。かつてはあんなに楽しかったインターネットで、現在の私は日々疲労と無力感に苛まれながらどうにか立っている。

 ハーマイオニー・グレンジャーという登場人物が大好きだった。言わずもがな『ハリー・ポッター』シリーズのキャラクターで、主人公ハリーの親友だが、彼女は作中の後半ずっと「屋敷しもべ妖精解放運動」を一人で行っていた。これは、与えられるべき給与や休暇が与えられずに過酷な労働をさせられている屋敷しもべ妖精に権利を戻そうという運動(ざっくり)で、映画版ではごっそりカットされていたが、原作小説だとハーマイオニーのアクティビストとしての印象を強くするエピソードである。彼女の解放運動の方法そのものを評価することはしないが、私は、古くから社会の中に構造として存在している差別や偏見から目を反らさず闘おうとする彼女の人柄が大好きで、尊敬している。ハーマイオニーなら原作者のトランス差別も絶対に真っ向から批判するはずと確信している。そしてハーマイオニーなら、インターネットを上手く利用して現実社会に向き合っていくはずと確信している。

 インターネットは騒がしい。なぜなら模倣元の現実社会が騒がしいからだ。インターネットが騒がしくない人は、一度顔を上げてみたほうがいいかもしれない。そしてこのプラットフォームは「しずかなインターネット」というようだ。名前に惹かれて機能を見てみた私がさっそく飛び込んでみるまでに時間はかからなかった。インターネットそのものではなく、インターネットのどこかにしずかな場所を作れるのであれば、それは現実を生きる私の助けになるだろう。