死ぬ瞬間は誰でも絶対にひとりなんだという理解が最近実感になりそうで、恐怖となぜかワクワクと安心があって変なかんじだ。今日は運転に集中できなくて、過去一くらいの緊張のヒヤリハットまで経験してしまい、参った。万が一衝突していたら肉体は破壊され、今頃ここにいなかった。こんな日は車になど乗らないほうがいい。
パレスチナ連帯デモへ向かう途中、空が綺麗だなーと思ったあとに明日死んでも別にいいなーと思っていてびっくりした。人生やり残していることはたくさんあるはずだけど、死んだら死んだで納得する気がする。いつからこんなに未練が減ったのかわからない。未練が減ったというより、死を受け入れる姿勢が濃くなりだしたといった調子に近い。年齢か? 否。過去にあった「無敵感」は若さゆえではなかった。自暴自棄だった。つまり今は生命をより吟味できているということだろうか。
インビザライン歯列矯正を始めた。このために病院を3件はしごして全ての親知らずを抜いたから、ようやく開始にまで至ったことにまず安堵する。しかしこれはなかなか窮屈である。歯が。装着中は舌に力が入ってしまったり心なしか頭痛もしたり、装着していない間は物を噛むと痛むので、前途多難。毎日低容量ピルを飲んで、舌禍免疫療法で花粉症の治療もして、目はコンタクトレンズをしないとよく見えないし、髪の毛は伸び続ける。美味しいものを美味しいと思いながら食べていると肉がつく。意思や期待とは違う反応をする身体がいくつになってもいまいち意味不明だ。しかしこれがないと生きてはゆかれないのだから、一介の容れ物にしては態度がデカいこれと、できることなら友情とかを育んでみたい。
ところで、先日、昨年一緒に仕事をした取引先の会社の人が、今月末で退職しますと伝えに来てくれた。在宅勤務をしていたタイミングだったので直接は会えず悲しかったが、翌日出勤したときにデスクに置かれた名刺と「お世話になりました」のお菓子を見て、察して勢いでかけた電話口で「一緒にお仕事ができて本当に楽しかったです。最後に声が聞けてよかった」と言われて泣きそうになった。誰かに大切に思われてそれを伝えてもらえる、これってこんなに幸せなんだと噛み締めた。肉体から発せられる声を(それも矯正中で滑舌が悪い私の声を)聞いて、声が聞けてよかったと告げてもらえる、その感激に涙が出そうになった私の身体は、精神と連携が取れている。人間はあるいはこういう瞬間のために社会に属している。平野啓一郎『小説の読み方』に書かれていた美嘉『恋空』についての「愛は常に身体に向かう」を思い出した。
この馬の身体の躍動感はまた人間の身体の制御できなさの象徴でもあるだろう。人間はもちろん馬ではない。しかし、制御できない、ままならない身体をもつという点において、等しく他者なのである。―小川公代「”規範的身体”を揺るがす文学」文學界(2024年3月号)
文學界3月号の特集「身体がいちばんわからない」、よかった。