あの後輩に嫌われているような気がしてなんでだろう?と思ってるんだよね。数年前より肌荒れの直りが遅くなって嫌だなと思ってる、解決策はないかな。いつもあのお店で買い物してるけどちょっと飽きてきたから他の候補を探してるんですよ。食べるとすぐ体重になるし、手の乾燥もすごい、加齢とどう付き合っていけばいいんだろう。転職したいと考えて久しいけどなかなかしっくりこなくてさ。……
いっちょ前に悩んでいるような口ぶりで話題に出してみるけれど、正直、どれのこともどうでもいいと思っている。本当はもっと政治とか哲学とか宇宙とかの話をしたい。協調性のある社会的な人間のふりをして気にしている素振りで話すけれど、本音では、なるようになるから執着はないと感じている。
友達に「人に興味がないよね」と表現されるとそれが腑に落ちる妥協点だ。私は、「他人」とは、私との境界が確実に引かれた絶対的な他者であり、私が干渉したり影響を与えたりする部分は私には決して操作できず、お互いに完全に独立した存在同士であると深く認識しているので、対人関係で頭を悩ませることはない。なるようになるという言葉がまさにこの境地であり、私の場合、これは自分自身に対しても一定感じている。老いようが、太ろうが、髪が伸びようが、仕事が遅れようが、欲した物が手に入らなかろうが、競争事で思うような順位にならなかろうが、その状態がそのままそのときの私であり、そこに良し悪しを判断する評価基準はない。他者がどういう状態で生きていようと、自分がどういう状態で今ここに座っていようと、自分が他者からどう思われていようと、それがそのまま世界であり、私であり、あなたなのである。過去や他人と比較して優劣を付与する基準は存在し得ない。比較しようとするだけナンセンスだ。あるがままを再認識するということ。
この思考が「人に興味がない」と表現されるのはまあ、妥当だろう。興味というのはある種の執着である。社会の人々は往々にして自身が属する組織で繰り広げられる人間関係や自分の抱える物事の進捗状況を気にし、隣人との話題にし、一人になっても様々な考えに溺れる。それが一般的な人間の在りようであり、人がそうであるからこそ組織は動く。しかし私にはその執着がないため、執着している「ふり」しかできない。しかも私はその「ふり」を別に一生懸命やっているわけではないから、みな、私とちょっと関わればすぐに「こいつは人に興味がないんだな」と感じるようだ。周囲に対して「人に興味があるんだねー」とはならず、私に対して「人に興味がないんだねー」と言う。噂話や人生におけるあらゆる選択肢について悶々と思い悩む様を持つような「人に興味がある」というベースが一般的な人間像としてこの社会に敷かれているからこそ、私のような者は異端になる。
そんな周囲からの所感に対しても心底どうでもいいと思ってしまう。どうでもいいというより、「異端なんだなあ。へえー」で終わり、感情が波打たない状態のままである。変わっているとは確かに言われる。あなたは他の人とは違って変と確かに言われる。しかし私にとってそれら全ての意見は私が干渉し得ない対岸の事象であり、どうすることもできない。それらの意見も、私も、今この宇宙の小さな片隅にただ「在る」、というだけである。
(個人レベルから組織レベルまで全てを含めた)他者へ到達する影響自体を操ることは不可能だが、自分から発する影響の形を変えようとすることは可能だ。自由意志である。これがあるから私は職場で「残業はしません」とか「判断に迷ったらいつでも声かけて」とか言い、左派として政治家を批判し、配偶者をハグし、創作を続ける。このとき私が律しているものは私自身の生き方であり、在りようである。他者側からの反応を見極めたり期待したりすることはしない。そうでありたいと日々思って生きている。…努めて。