私を然りとする(変化と時間と死)

加藤み子
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公開:2024/10/13

 最大の絶望は終わりがこないこと、だと思っていたが、ゲーム『ファミレスを享受せよ』をプレイしてその捉え方が少し変化した。永遠や無限ループの真っ只中に放り込まれてこの状態がいつ終わるのかわからないという状況は、絶望であると同時に安堵をもたらしてくれるものなのかもしれない。この先も変わらずここにいて良い、なにも考えず怖がらず、明日も同じ顔ぶれと慣れた会話をしていて良い。分岐を前に思考して選択して決断して……をやらなくて良い、という安心がそこにはある。

 しかし、人はなぜ変わらないことに落ち着きを得るのだろう? 贅沢にも、同時に飽きや退屈さも抱くくせに。変わることへの不安はどこからくるものなのか。どうしても当然移りゆく生命の中で、私達は日々、一体「変化」のどこの部分にそんなに労力を使っているのだろう? 知らない道の先で何が起こるのかわからない不安。下した決断への責任の重さ。選択を失敗するかもしれない恐怖。自由意志とは。変わった後の私は、変わる前の私には二度と会えない?

夕暮れの風景の写真。

 昔から全ての時間は同時に存在している感覚があって、高校生の頃、放課後に誰もいないオレンジ色の廊下を振り返って立ち止まったとき、あ、私、この瞬間のこといつかきっと思い出す。と思った経験があった。いつかの未来の私が廊下に一緒にある感覚がした。私がたくさん重なる感じがした。

「いつか未来で今のことを思い出すだろうな」と考える瞬間、その場の私はこのときを思い出している未来の私と一体となっている。過去のある一瞬を思い返す私は、過去のそのときの私とXYZ全ての軸で重なっており同一に存在している。死を過剰に恐れなくなったのはこの感覚を自分の中で言語化してからだ。私の死後、自分の介さないところで時間が流れ、世界が進み、他の人々が生活を営んでく間、肉体が滅び無となった私は死後の永遠のときをどこかの空間でたったひとりで過ごさなければならぬ、それが昔はどうしようもなく怖かったが、あらゆる時間の私はすでに存在していると腑に落ちてから、その大きな恐怖もほとんどなくなった。

 おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年もおれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に!

  大江健三郎『セヴンティーン』

 n年後、この社会は社会主義的になって国家や政治のあり方は変わってやがて人類は光年単位での移動も可能になって肉体を捨て精神だけの存在となって……と、赴くままに未来を想像してはそれを体験できないこの人生を悔やみ、経験できる未来の人類を羨ましく感じていたこともあった。過去の素晴らしかったあの時間をもう一度肌で経験できない運命が心底残念で、落胆したこともあった。が、そんな気持ちも今やない。永遠主義、ブロック宇宙論に近いが、未来・現在・過去は全て同時に存在しているからいつなんどきの出来事も私は経験できる、という確信を持つようになってから、そうなった。今それを経験できていないのは単に、現在の人類の思考や技術がこの世界の仕組みに追いついていないからだ。――この思索が今なぜかしっくりきているから、未来や過去に対して悔しくも羨ましくもない。残念でもなく、寂しくもない。(ただこの理論を自分の中で成立させるには、身体と精神の関係や死についてもっと科学や哲学の知見を深めたいので、今日時点での整理と捉えてもらいたい。)

 そしてこの境地に至ってからというもの、「現在」は点ではなく「過去」は消えゆくものではないという認識の相乗効果か、周囲に存在している全てのものを心から愛しいと思えるようになった。退勤後に見上げた夕方の薄い月や、やわい雨の降る昼過ぎの暗さとにおい、街灯に照らされてコンクリートに落ちている草の影、早朝の靄、マンション上階の明かりが窓の中に枠取る誰かの背中、すれ違う人の話題、配偶者の未来、自分の傷。……。生命はみずみずしく、この星は美しい。自然は壮大でヒト程度が適うものではない。本当に人間は、私はちっぽけで、宇宙に関する本を読んだり映像を見たりするたびに目が覚める、日常に必死になると目の前のコミュニティのことしか見えなくなって当然だが、その外には常に海が揺れていて、森も揺れている、月は地球を回っているし、地球は太陽を回っている、太陽系の遙か彼方に地球にそっくりな星だってあるし、宇宙の正体は誰にも全然わからない。

 果てない宇宙の途方もない星に暮らす小さな私が、いつかの未来で過去の私になるときは、そのときの私も含めたその瞬間全てのものを肯定し、愛しく美しく思うはずだ。なぜなら時間の流れを一本の線としか捉えられない現在までの私は、毎秒更新される自分を肯定したくて生きており、その私を未来で肯定するならば、そのとき私と共存していた全てを肯定することになるからだ。ニーチェが『力への意志』で触れたことや、森岡正博が哲学書で書く死生観や反-反出生主義に若干似ている思索でもある。

 もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それだけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも事物のうちにも、何一つとしてないからである。

  ニーチェ『力への意志』

 私は私の日々の変化に緊張しながら生き続けて、不足ばかりの社会に怒って、ちっぽけな馬鹿らしいことで泣いて、笑って、大好きな薄暗い曇りの夕暮れに胸を痛めて、そうやって永遠をなぞっていく。いつか暴力は裁かれるだろう。同胞ごと肯定できる未来はもう存在しているはずだ。体感時間でどのくらい先なのかわからないから、とりあえず今は渋々時計のとおりに生きておく。

写真。壁にポストイットがたくさん貼ってある。