お風呂が湧くまでの時間に洗面所にしゃがんで本を読む。二階から夫のくしゃみが聞こえてくる。目の前にあるドラム式洗濯機に、家用眼鏡をかけた私の姿が少し歪曲して写っている。
この共同生活を始めて四、五年が経った(記念日などにこだわらないタイプなので正確な数字がわからない)。夫とは一度も喧嘩をしたことがない。そう話すと驚かれることが多いが、たまたま二人とも怒号を飛ばすような言い合いが嫌で面倒なだけで、二人とも物事への執着が薄くて譲るのが苦でないだけで、低空飛行で冷静に話し合ったりすることは年一くらいの頻度である。気は、私のほうが圧倒的に短い。言葉が時に乱暴になるのも私。夫の言葉遣いは非常に、紡ぐ、といった感じ。夫さんはどういう方? と聞かれたとき、色々長々と説明するのは場に合わないなと思う場合は、「夫を見ていて神木隆之介さんに似ているとは思わないけど、神木隆之介さんを見ていると夫に似ているなと思います」と毎回言っている。夫を知る人も、この説明で納得の音を出す。この間、夫さんを漢字で表すなら何ですかと聞かれて、「誠実の誠って漢字あるじゃないですか。まこと。あれです」と答えた。
愛とは、自分がいま向き合っている相手のことを真に大切な存在だと思い、その相手がいまそこに存在していること自体をいとおしく思い、その人がそこに存在しているだけで私が満たされていくことである。
森岡正博『無痛文明論』
夫と過ごしていると、この人に出会って家族になれた自分の運の良さにおののく。同時に、この人の前で自分はなんて卑屈で卑怯でねじ曲がった人間なんだと恥ずかしくなる。好きで、色々な場面で何度も引用している言葉がある。今あなたに出会えたということは過去の私の選択は間違っていなかった、でももっと正しい選択をしていればもっと早くあなたに出会えた。
共同生活をしていても、私達は一人の時間がとても長い。共働きだから平日は朝のちょっとの時間と夕食くらいしか一緒にいないし、休日は食事以外はそれぞれの時間をおのおの過ごしている。たまに出かけたり買い物に行ったりするくらいで、例えば家で一緒にだらだら映画を見るとか、スポーツ観戦をして共に盛り上がるとか、そういった時間の過ごし方は全然しない。同じ屋根の下にいても別の部屋から「はらへり何%?」「90。そろそろご飯?」「おけー」なんてラインをして、すごすごキッチンに集まって、なんとかというゲームでプラチナというランクまで上がった話とか、さっき読んだ本の話とか、産休に入った同期の近況の話とか、そんなのを話しながら鍋を煮る。ぐつぐつ。よくもまあこんなに私にぴったりな人と出会えたものだ。よくもまあ、夫は私のような人間と数年間も共同生活ができているものだ。
存在だけで満たされるとは言い得て妙だ。その定義ならこれは愛か。隣の夫の部屋から笑い声が聞こえる。おそらく好きなゲーマーのゲーム実況を見て愉快になっているのだと思う。平和と余裕がこの人にだけは永久にあってほしい。叶うことなら世界も。