私は急いでいた。10時から10時半の間にクリニックの受付に行かなければならなくて、初めて行く場所だからキャッシュレスが使えるかわからず、心配性のわたしには現金を下ろす必要が生じ、手前にある郵便局の駐輪場に滑り込んだ時点で10時15分だった。郵便局のビルには保育園が併設されていて、今から散歩に出かける園児たちがエントランスで2列に手を繋ぎ並ばされていた。その間を縫うようにATMへと向かおうとすると「雪だ!」という声がして思わず振り返る。雪だ。雪だ。園児が口々に言った。ゆき、という単語が聞こえたからそれを復唱しているだけであろう子もいた。空を見上げてみるが分厚い雲が広がっているだけで何の変哲もない。園児の視線を見ると皆一様に下を向いていて、追うように目線を下げると足元に除雪材が敷かれていた。ビーズのようなそれは、アスファルトの隙間にこまやかに埋没していた。ゆきだ。ゆきだ!園児たちは繋いだ手を赤らめながら笑っていた。初めて行くクリニックには『ホール・ニュー・ワールド』がオルゴールで流れていた◆職場に着くと雪が降り始めた。やさしい同僚の心配を他所に社用車に乗り込む。屋外の駐車場。入庫と出庫の軌道が雪の上に刻まれ、そしてまた降り積もる雪によって消されていく。足跡も同様にわたしの存在を刹那鮮明に浮かび上がらせ、また後追う雪が私の影を消していく。ヘッドライトの光に照らされた雪はその降雪速度を緩め、まるで滞留する蛍のようにも見える。前髪は濡れヘアゴムも濡れる。人と雪合戦をした。人生楽しそうだねと言われた。楽しそうな人生を見せる以外に何ができるだろう?嫌なことを忘れるのが上手なだけだよと答えた。楽しかったことだけを抽出して人に見せているだけ。藤本タツキがチェンソーマン一部の後に公開した『ルックバック』は雨だったけれど、わたしは雪の上で踊ってみせる。ダンス・ダンス・ダンス◆日記ってもっと情けなくてかっこ悪いものであるべきだという強迫観念が私にはあって、だからわたしは自分の日記すら嫌いになったらおしまいだった。もっと情けないことを書かなければ。もっと情けないこと。仕事の合間に大嫌いな家の管理会社に2回も電話を掛けて口調が少し無愛想になってしまったこと。信号を斜めに渡ってしまったこと。恋人と縒りを戻したいと思ってしまったこと。インターネットで偶像のわたしが作られていくことが嬉しい反面怖いという気持ちはもうずっとあって、ほんとうはもっと情けない人間なのにそれを人に伝えると「いやいや笑」と言われる。でもわたしも相手の立場だったらそう答えるだろう。答えがひとつしかない問いを、ただ相手との距離感を確認するために使うのをやめたい。そんなのは狡だから。いつか誰かにわたしの醜さを指摘されるのが堪らなく怖い◆職場に帰還するとわたしの一番好きな人がコーヒーを奢ってくれた。雪を見ながら二本煙草を吸って、少し飲みに行くかと飲みに連れて行ってくれた。煙草を吸っている間、眼下には街を行き交う大小様々な車が通った。雪だ!と園児が口々に言い、指を指す。今夜あの子たちは、雪は空から降るものだと初めて知るのだろうか。わたしはいつから、雪は空から降ると決めつけていたのだろうか。2024.2.5
酔い潰れたり面倒がって翌日になって昨日のことを書くことが多い
X: @kujuranosenaka