96 最悪の指輪

鯨日記
·

起きるとシャッターを閉めているのに部屋がやけに明るくて、キッチンには飲みかけの缶酎ハイが置いたままだった。サランラップを張って冷蔵庫に入れて灰皿に残った灰を捨てる。自炊はしていないはずなのになぜかシンクには食器が積み重なっていて、まだしばらくは見ないふりをする。LINEが何件か来ていたが視界が滲んで文字を正しく判別できない。張り付いたコンタクトを外してシャワーを浴びている間に46Lの水量で洗濯を回す。irokaの柔軟剤は匂いが強いから規定量よりも少なく入れる、みたいな生活のリズムというかコツ。間違える度に学習する私の生活。髭を剃る。人生であと何回髭を剃るんだろうとかそんなどうでも良いことを考えていた気がする。高校生の時から使っているラムダッシュのシェーバー。トイレでSNSを見て換気扇の下で煙草を吸っている間に髪は乾いて化粧水と乳液をして水揚げされた洗濯物を浴室に干して乾燥スイッチを押して今日の予定を思い出す。喫茶店に行くんだった◆「〇〇駅の○○という喫茶店」という会話を、元恋人と最後に会った日に交わした。次はそこに行こうか、と日付を決めた。それが今日だった。恋人とはその日を境に連絡が取れなくなった。私は今日を境に何事もなかったように暮らす予定だった。でも先方にとってのその儀式のようなものは前会った時既に完了していたのかもしれない。もっと前の可能性すらある。私の気づかぬ間に、気づかぬ速度で。喫茶店までの道すがら時間を決めていなかったことに気づく。連絡をしても繋がらないからどうしようもない。グーグルマップを見ながら向かったが別に見なくても迷わなかったと思うくらいその喫茶店は我々に似合っていた。最後の喫茶店としては完璧に相応しかった。綺麗に掃除が行き届き、光が差し込み、トイレも清潔だった。「ワンオーダーで二時間、それ以降は追加注文をお願いします」というテプラがカウンターに貼られていた。煙草を二本吸って、文庫本を読み、二回トイレに立った。その間に二度電話が掛かってきた。一人は事情を説明したら面白がってくれた友人からで、もう一人は再々配達に痺れを切らしたヤマト運輸のドライバーからだった。友人の書いたnoteを読んで、客を見渡して、文庫本に目を戻した。今日で短編のうち二編を読み終えた。村上春樹はセックスのことばかり書いていた。大きな窓からはバス・ロータリーが見え、それは二つ前の恋人と行った白鳥の名前を冠した喫茶店のことを私に思い出させ、その時隣には母が座っていて、そうだ親を紹介した日だった、サイレンが外で鳴っていて、それはいずれ結婚するという言葉さえなかったがそれ以外の意味など持たぬ形式上の挨拶で、隣の席には背の大きな男が座っていて、母と恋人の話が弾んでわたしは居心地の悪さから外を見ていた。わたし達は同じ大学を卒業して社会人になる、そんな狭間だったような気がする。その恋人と連絡が取れなくなったのも二月だった。突然だったが偶然ではなかった。原因はわかっていた。今回もそうだった。行く宛のない視線の先にはいつもバス・ロータリーがある。いくつかの乗用車がロータリーに侵入する。バスに阻まれたそれらはなにか異物のように見えた。彼らは誰かを降ろし、誰かを乗せて行った。乗用車が流れていくと健康な人間の血液のようにロータリーは再び循環を始める。お代わりは注文しなかった。一人分の勘定を支払って外に出る。思考を放棄したくて気がついたら電車に乗って職場のデスクに私は座っていて、そのまま金曜日に放りだした仕事の続きをやった。何かをやっていないと落ち着かなかった◆靴紐を結んでくれたことを思い出す。あれは誰だっただろう。もう名前も思い出せない。富士急ハイランドのスケートリンク場のアルバイトで知り合った人だった。なんで今思い出したのかもわからない。記憶の神経回路同士を繋ぐ信号にエラーが起きて、いつかの日々といつかの日々が千切れてジジジと火花を散らし強制的に接続されていく。さっき母に紹介した昔の恋人を思い出したのもどこかの回路がショートしたのだろう。エンジニアは仕事を放棄して飲みにでも行っているのだろうか。PHSを鳴らして今すぐ戻ってバグの修復をしろと呼びつけたいが休日出勤をするお前が悪いと言われそうだった。仕事ぎらいのお前らしくない。何があった?いや待て、言わないでもわかる。当ててやろうか。下らない悩みばかりウジウジ抱えやがって。そう言われPHSが切られてしまう◆今日元恋人に会えたら渡そうと思っていた衣類の入った袋を駅で捨てようとしたけれど知らない人に持ち帰られたら堪らなく嫌だったので結局家のごみ箱に捨てた。袋を一度逆さにした時に指輪がひとつこぼれ落ちてきてああこれも返す予定だったなと試しに嵌めてみるがサイズがフィットするのが薬指しかなかった。小指だと緩く、人差し指だと詰まってしまう。最悪の指輪だった。袋は口をきつく結んで捨てた。来週になったら燃えるゴミの日が来る。二週間後にはこの部屋を引き払う。2024.3.2