142 採血が嫌い

鯨日記
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健康診断に行った。狭いロッカールームで囚人服のような服に着替え、心電図、聴力、視力、と様々なブースを担当の看護師と一緒にぐるぐる回る。タライ回しのように色々な先生の元へ行き色々な検査をされ、挨拶もそこそこにさよーならと後にする。「次が最後の採血になります」と言われ、思わず肩に力が入る。わたしは一度大学に来ていた献血車両で献血をした時に失神しかけたことがあって、だから問診票の「採血が苦手」の欄に強くボールペンでぐりぐりとチェックを入れていた。採血をトリにしてくれていたのは病院側からの配慮なのかもしれなかった。名前を呼ばれて、他の人とは違う部屋に通される。無機質なベッドとそれを囲うカーテン・レール、簡易的な机と何に使うか分からない機材が置いてある、四畳半ほどの部屋。そこでスリッパを脱ぎ、囚人服のまま横になった。どちらの腕がいいですかね、と採血担当と思しき看護師に尋ねられる。左利きで、と答えると「じゃあ右腕にしましょっか」とわたしの右腕の血管を確かめるように触診する。「今日一日は重たいものなど持たないようにしてください。内出血になることがありますので」と言われ、ただでさえか細い返事しかできなくなってきていた折にそんなことを言われて「内出血……」と気づけば口にしていた。そう、内出血、と看護師は目を細め微笑みながら私の言葉を繰り返した。「グッパーグッパーしてください」「チクッとしますよ」とわたしの右腕の関節に針が刺し込まれた時「死にたくない」と、なぜだかつよく思って、びっくりした。わたしは今消えていなくなりたくて、というより常に月のように満ち欠けする希死念慮が昨日から極大日を迎えていた。過去の自分が予約をしてしまっていたから渋々来たはずの健康診断で、ずっと「死にたいなあ」と思っていた。狭いロッカーで脱ぎづらい靴を無理くり脱いでいた時、囚人服を着た時に乱れた髪の煩わしさを考えた時、行き違いで家にキットが届かなかったからたったさっきトイレで採尿をしていた時、白を基調とした待合室でぼんやり天井の上で回るプロペラを眺めていた時、ずっと思っていた、のに、わたしの右腕から今確かに抜かれているであろう、細いチューブを駆け抜けていく、さっきまでわたしの体内を巡っていたはずの鮮血。のことを考えた時、「死にたくない」と確かに思ったのだ。永遠に思えた採血が終わる。詰まった息を一気に吐く。青色の止血バンドを嵌めてもらい、正方形の小さな絆創膏を貼られた後、看護師さんはわたしの腕をトンと叩いた。これで終わり、というしるしのように。「五分くらい横になっていてください。迎えに来た時にまだしんどかったら、その時また言ってくださいね」ひとつに結んだ長い髪が揺れ、看護師は去っていった。五分後に迎えに来ますから、と振り返りもう一度、念を押すように言って。ひとりで薄緑色のベッドに横になったわたしは閉め切られたカーテンを左腕で開けようとした。でもそのカーテンはどこかでぴっちりと留められていて動かすことができなかった。カーテンの向こうにある窓、の向こうから聞こえてくるバスの走行音に耳をすませる。人の歩く音。裏で看護師が楽しげに話す声。寝心地が悪くて髪をほどく。微量の風が入り込んできて、カーテンと天井と壁に貼られた文字の小さくて読めない紙を目だけ動かし順に4往復くらいした後、先程とは違う看護師が「調子はどうですか」と入ってきてわたしに聞いた。さっきの看護師さんに会いたかった。お礼を言いたかった。採血に善し悪しがあるのかは知らないけれど、全くと言っていいほど倦怠感や不安、不快さや目眩はなくて、でも休ませてもらったからには回復したような調子を見せないといけないという罪悪感のようなものが頭をよぎって、先程よりも幾分血色の良い声で「なんとか」と言った。2024.4.17

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