150 水筒を抱く

鯨日記
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「働いていると、泣きっ面に蜂どころか、泣きっ面に蜂・ピラニア・猪・カメムシ、というような時がある。」というのはわたしの大好きな一節で、『虎のたましい人魚の涙』(くどうれいん著)に収録されているエッセイの中の一節にある。働いて/生きて いると誇張では全くなくこういうことが起こって、その度「わたしならピラニアの代わりに何を入れよう」と考えている。自分なりに書くなら今日という一日は「泣きっ面に蜂・フンコロガシ・蝉・毛虫」だった。すべての窓口が営業を終了してい、それに伴いありとあらゆる個人的な事務手続きが膠着し、電車の席には尽く座れず、自動販売機で買った缶コーヒーに髪の毛が付着してい、指に纏わりつくそれを剥がそうとしている時に職場から無理難題の電話がかかってくる。読み差しの小説の言葉が上滑りし、明日が早いためビールを飲むことも叶わない。くどうれいんはそんな日にハンドルを握りながらさめざめと泣いて、ドリアを食べに行った。わたしにとってのドリアはなんだろう◆昨日眠りに落ちる前、半覚醒した脳で残したメモに「水筒を抱く」とだけ書かれてあった。次の日の自分に解釈を委ねすぎていると反省する。わたしは眠る時、小さな段差からずれ落ちるような感覚に陥る時が往々にしてある。スケート・ボードに乗って(勿論精通している訳はない)段差から落ちるような時もあれば、自転車に乗って側溝にはまるように落ちる時もある。幼少期の頃からの感覚で、過去にインターネットで調べてみると同じような感覚を持っている人も一定数いるみたいだった。昨日も落ちた。でもそれはスケート・ボードとも自転車とも違っていた。水か何かが入った重い水筒を足元に落とし、その重力に引っ張られるように体が地面に向かって落ちる、ような感覚だった。手元には水筒を抱いていた感覚だけが残っている。そのステンレス・スティールのひんやりとした手触りまで覚えている。わたしはその時ぬいぐるみを抱いていたのかもしれない。でもなぜか夢の中でわたしは水筒を抱いて眠っていた。何かの暗示かもしれないしメタファーでも何でもないかもしれない。意味はない方がいい。今日は散々な日だった。でもサイゼリアは近くになくて、だから今日も水筒を抱いて眠る。2024.4.25

@kujuranosenaka
酔い潰れたり面倒がって翌日になって昨日のことを書くことが多い X: @kujuranosenaka