69 マーシャルの匂いで飛んじゃって

鯨日記
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どうされましたか、と聞かれ「マイナンバーのパスワードがロックされちゃって……」と伝えると「エヘヘヘッ」と言われた。午前10時を少し過ぎた行政事務所の窓口。わたしは起床してコンタクトを入れただけの酷い顔と格好で固いソファに座っていた。休日だからもっと混んでいるかと思っていたけれど人はまばらで、でも色々な人がいた。ベビーカーを押した外国人夫婦、指示書きを前に立ち尽くすおばあちゃん、子連れ、私。ぶっ殺されてえのかという抑揚のない声がして振り返るとお母さんが立ち歩く3歳くらいの子どもに注意をしているところで、でも母はその言葉にまるで意味なんてないように表情は柔らかく、子どもも母を見上げて笑っていた。窓口でパスワードの初期化を終えて住民票を発行する。市役所で働いている友人が「いつも手続きが終わった後、相手になんて言えばいいかわからないんだよね」と言っていたことを思い出す。お疲れ様も違うし、またお越しくださいも違う。安藤サクラ主演のドラマ『ブラッシュアップライフ』にも同じようなシーンがあった気がする。みんな迷って、それぞれの言葉を確立していくのだろう。わたしは全ての手続きを終えた後、感染防止のビニールを隔てて「お疲れ様でした」と言われた。色々迷った末にお疲れ様でしたに辿り着いたんだろうなと思った。お礼を伝えて帰る時も先程の子連れと一緒だった。「電車見に行く?」という問いかけは、返事を持たぬ愛の言葉だと思った。

◆あのちゃんのポスターがたくさん貼られたブック・オフに行き、図書館で『群像』を読んだ。無印良品でオーガニックコットンの綿を使用した洗いざらしのボタンダウンシャツを一枚買って、洗濯機を2回回しすべてのシャツとトレーナーを洗って干す。ラジオを聞きながら掃除機をかけて、ソファの上に散乱したリモコンや書類やらを所定の位置に戻し、マットレス・シーツと毛布をIKEAのショッピング・バッグに入れてコインランドリーに持ち込む。ランドリー内のベンチに腰掛けて村上春樹の『TVピープル』を読みスマホゲームをしてビル・エヴァンスを聴いて時間を潰す。陽光が室内を満たし首筋が温かくなる。花柄にあしらわれた古い機種のコイン式洗濯機の中でわたしの布団が回転していた。部屋に戻ってくると目眩がして、どうやらランドリーに充満した洗剤の匂いで酔ったみたいだった。体調は急激に下降の一途を辿り、2時間の昼寝をした。アホの椎名林檎みたいなことをしてしまった。林檎姐さんは「マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ」と歌った。マーシャル(MARSHALL)はイギリスのアンプ・メーカーでわたしはその匂いがわからなかったので調べてみると「ビニール・レザーの匂い」や「マーシャル・アンプは柔らかくて太い音がするからそれを匂いに喩えたのではないか」などの考察があった。飛んじゃって、のところであの人の声がもうひと段鼻にかかるのが好きだった◆2時間の睡眠の中で夢を見た。久しぶりに会う小学校の友人らだった。彼女は今年結婚するらしいと友人は言った。夢と現実、昨日と今日の境目が曖昧になる。彼女が今年結婚するというのは本当のことで、それは先月行った鳥貴族で交わした会話だった。手が痺れる。冷たくなった洗濯物を取り込む。2024.2.3

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