102 早稲田、高田馬場、新宿区、村上春樹、Waltz for Debby

鯨日記
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今日の仕事は午前中の会議に出席するだけで、その足で午後の山手線に揺られ高田馬場、東京メトロ東西線に乗り継いで早稲田駅で降りた。早稲田大学構内に国際文学館(村上春樹ライブラリー)というものがある、とLINEで教えてくれたのは東京に遊びに来ていた学生時代の友人で、かれは午後に予定があるから午前そこに行くと話していたが、仕事を切り上げて急いで向かえばすれ違うくらいは会えるかもしれないと提案し、私たちは互いに迷いながら早稲田大学八号館で落ち合った。カフェ125に立ち寄り私はタコライスとホワイトナイルというビールを注文した。かれも同じビールを注文し、アルコールが弱いことを赤くなった頬で思い出す、昼下がりの早稲田のテラスで談笑して「もし早稲田で私たちが出会っていたとしたら」という話になった。カフェに立ち寄る前に早稲田を少し探検して「私立は施設が立派」という会話を交わしていて、不幸自慢をするわけではないが私の家庭は裕福ではなく、それなのに姉が私立の女子大に進学したため「成程これは国公立しか生きる道はないのだな」と選択肢を勝手に見限った高校生の私にとって東京の私立大は夢みたいに羨ましく思えた。ここに通っていたかもしれない自分なんてパラレル、空想が像を結ばない。そもそも学力が圧倒的に足りない。現実的ではなかった。境遇は違えど考えていることは友人も同じであることが窺えた。渋谷に向かうというかれと門の前で別れ、私はライブラリに向かった◆隈研吾の設計した施設のアーチが私を出迎えてくれる。館内は村上春樹の歴代作品が清潔に並べられて、彼の関連書籍だけでなく、彼と親交の深いイラストレーターの展示も展開されていた。オーディオ・ルームでは小説内に登場したようなジャズがレコードで聴けて、『ノルウェイの森』に登場したビル・エヴァンス・トリオの「Waltz for Debby」は運悪くプレーヤーからその針が持ち上げられジャケット・ケースに仕舞われた後だった。昔から間の悪い男だった。『ダンス・ダンス・ダンス』に登場したダンキン・ドーナツは現在日本市場からは撤退してしまったため(沖縄米軍基地内には健在)、地下のカフェでドリップ・コーヒーとシュガー・ドーナツを注文した。村上氏の書斎を再現したブースが座席の背後に設けられていた。館外に出ると入る時には気づかなかった柑橘系の匂いが鼻を掠めて、入り口脇に植えられていた花にアプリのカメラを翳すとジンチョウゲと表示された。それがクチナシ、キンモクセイと並んで三大香木に数えられていると知る。村上春樹とジンチョウゲの相関は調べてみても出てこなかったが、彼が好きな花とかだったらロマンチックでいいなと思った◆帰りは地下鉄には乗らず高田馬場駅まで20分ほどを歩いてみることにした。駅へと向かう大通りに古本屋が立ち並び、吟味して一冊だけ購入した。値段の書いていないワゴンの中から抜き出した千葉雅也の『デッドライン』文庫版は250円だった。大きな交差点の写真を何枚か撮った。東京を散歩するのは楽しい。色んな音がする。どこかのクラクションとLoopの走行音、警察官が咥えたホイッスルからは鳥の鳴き声に似たつんざくような音がして、それを追いかけるように電車の走行音が聞こえて駅に近づいているとわかる、散歩中にGoogle Mapを見ないのはこだわりの一つでAirPodsから流れるCody・Lee(李)のギターリフと新宿区の音が重なり、混ざり、さっきのライブラリでワルツが聴きたかったなと一丁前に後悔してみる。川の腐った臭い、道路脇に固められた生ゴミの柑橘の匂い。信号の白線の幅に合わせて歩く。すべて重なり、離れていく。風景がぜんぶ何かの暗喩に見えた。ガラス張りになった不動産のその窓際の応接シートに座った女性が書類に判を押して祝福のワルツが流れる。いつか行った居酒屋を通り過ぎる。遠回りして駅に向かい、帰宅ラッシュの中に身を投じる。まるで丁度仕事終わりですよ、というような顔をして。2024.3.8

@kujuranosenaka
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