「ハロゲイト」というメーカーの靴が欲しかった。HARROGATE.イングランドのノース・ヨークシャーにある街の名前。成田空港から飛行機で約19時間40分。そんなに長い時間飛行機に乗ったことがないから実感が伴わない。どうやらきっと遠い町。ハロゲイトを東京で扱っている数店舗の内、池袋のパルコは女性が多くて眩暈がしたことがあるという理由で気後れして伊勢丹新宿メンズ館に行った。今履いている靴は学生の頃に買ったもので、傷もひどく穴も開いていた。昨年足が痛いなと思って裏を見たら釘が刺さっていた。太く長い釘だった。でも奇跡的に底とインソールに穴が開いただけの被害で済んだから家にあったニューバランスのスニーカーの中敷きだけを入れ替えてずっと履き続けていた。特段問題なく履けていたから別に買い替える必要もなかった。でもとにかく金を使いたかった。事情を話すと長くなるので割愛するがわたしは鬱屈としていた。理由ならなんでもよかった。その矛先が靴に向かい、わたしは伊勢丹の重たいガラス扉を開けていた。地下一階は八割が紳士靴エリアで、客の身なりも皆小綺麗だった。釘で穴が開いた靴を履いているのはわたしだけだった。なによりみんな高そうな靴を履いていた。嫌な汗が背中に流れる。目が合う店員、客、きれいに磨かれたディスプレイ、柔らかいカーペット、そのすべてに貧乏人が来るところじゃないと言われているようだった。わたしは「ふ~ん」というまるでわかってますよと言わんばかりの表情を浮かべ、ただ小走りでとりあえず店内をぐるりと一周してみたが、陳列されている靴の脇にある小さなキャプションを見てもHARROGATEの文字は見つからない。わたしは勇気を振り絞り、年配の女性店員さんに「ハロゲイトという靴を探しているのですが」と声を掛けた。ゴングが鳴った音がした。ハロゲイトは屈まないと視界に入らない、いわば三軍のような棚に並べられていた。担当が変わってアイライナーを引いた三十代後半くらいの男性の店員さんがわたしのしどろもどろな質問に丁寧に答えてくれる。今日覚えた単語がたくさんある。Uチップ・シューズ、プレーントゥ・シューズ、サイドゴア・ブーツをそれぞれ試着する。わたしが言葉通りウンウン唸っている間、隣では10万円の会計が行われていた。わたしは鏡の前でくるくると回り、カーペットからフローリングに移動して靴の足音を確かめ、店員さんとサイズの調整をし、あーでもないこーでもないと悩んだ。脇には緑の箱が積まれていった。「今履いてるニューバランスは~」と店員さんが脇に脱ぎ散らかしたわたしの靴のサイズを確かめた。ごめんなさいそれニューバランスでもないんです。釘が刺さったからインソールだけ入れ替えてるんです。そんなことが言えるわけもなかった。情けなかった。店員さんは約束事をするときのように丁寧にわたしの靴紐を結び、解き、また結んでくれた。心を決めて「これで」と言うまでに、一時間半くらいかかった◆たった3万で、と思われるだろう。靴に何の見識もない奴がとも思われたと思う。でもわたしに取っては大金で、自分を救うために必要な行為であると信じたかった。いつか小金持ちになって「あの頃は3万ごときで悩んでいたな」と懐かしみたかった。今は3万払うのに一時間半迷う。それを覚えておきたい。今日を、この日記を、その記念碑にしたい。新宿からの帰り、三月に引っ越しをするので無印良品に寄った。良いなと思った棚の値段を見ると1万円だった。安く思えた。引っ越しの初期費用も会社のなけなしボーナスがなければキャッシングで払おうとしていた奴とは思えなかった。棚でも良かったんかな、と思った。嫌な話、お金さえ払えれば靴でも棚でも風俗でもなんでも良かったんだと思う。でも靴を選んだ。それに意味を付与するのはこれからだった。ハロゲイトはスパ・タウンとしても有名らしい。いつか飛行機で行こうと思う。履き慣らした靴と共に。2024.2.12
酔い潰れたり面倒がって翌日になって昨日のことを書くことが多い
X: @kujuranosenaka