「昔の人たちより2024年を生きる我々の方が優れている」というバイアスが生み出す損失

くまごろー
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話の流れがちょっと意味不明かもだけど、ここ数日で考えてたことに共通項がある気がしたのでとりあえずまとめる

昔の人が作った仕組みだけど、今めっちゃ欲しいと思ったもの

最近、人類学の読書会に参加していて、マリノフスキの著作『西太平洋の遠洋航海者ーメラネシアのニューギニア諸島における、住民たちの事業と冒険の報告』を読んでいる

この本でマリノフスキは、ニューギニアのトロブリアンド諸島で行われているクラ交易に強い関心を持ち、研究対象とした

クラとは、閉じた環を作る島々の圏内に住む多くの共同体の間で行われる交換の一形式である。すなわち、赤い貝の首飾りと白い貝の腕輪が、それぞれ逆の方向に循環しながら交換されていき、しかもそれが込み入った呪術儀礼、儀式をともない、規則と慣習によって細かく規制される(同書からの引用)

マリノフスキは、クラについてさらにこんな説明をしている。

クラの共同関係のおかげで、誰でもその環のなかで、身近な人を何人か、遠くの危険な未知の土地に味方を何人か持つことができる(同書)

こんなことも書いている

これは巨大な制度であって、部族間に広大な網目状の関係を作り、クラの交換への共通の情熱と、それと共に、多くの興味ときずなで結ばれた何千という人間を包含するのである(同書)

この部分を読んで、「クラ的な仕組み、会社とかで取り入れられたらすごい仕事やりやすくなりそう...」って思った

具体的にどんなこと思ったかというと

  • 身近な人と遠い人、何人かとの接点を持てる仕組みになっている。会社で言うと、情報システムにいる人間が、仕事上では中々接点のない営業や人事などの別部署の人と、仕事抜きに繋がりを持てる

  • メンバー各々が個々にそのような繋がりを持つことで、ネットワーク上の関係性が組織に構築される

  • 一回限りではなく、持続的な関係であるのが特に良い(持続の鍵は共通の情熱?)

社内の親睦を深めるために組織横断的に集めたメンツで懇親会を開いたり、社内運動会的なイベントを開催したりということはよくあると思うけど、単発の一回限りで、そこで構築された関係性も線止まりになってしまうことが多いおように思う

普段接点がない領域の人と積極的に繋がりを作りに行ける人は限られているので(まず私がそういうタイプ)、このような仕組みが会社にあったら部署間の連携だったり、プロジェクト発足当初の、「私たちは味方同士だよね」と確認し合う工程をかなり短縮できる気がするなあと思った

「共通の情熱」たり得るものを見出して据えることが一番難しそう

マリノフスキの言う原始的経済人ってまさに現代人なのでは?

マリノフスキは同書の中で、現代(マリノフスキの時代)の経済学の教科書に書いてある「原始的経済人」と言う考え方を強く批判している

この幻想的な"原始人ないし野蛮人"は、あらゆる行為を、私利私欲を求める合理的な考えにうながされて行い、目的を直接的に、かつ最小の努力で達成する。人間、とくに低い文化水準にある人間が、開化した利己主義からくる経済的動機に純粋にしたがって行動するという仮定が...(同書より引用)

読書会に参加していた別の方が「この原始的経済人の定義って、むしろ我々現代人のことを指しているよね」と言うコメントをされていてすごい衝撃的だった

確かに、新自由主義的な資本主義が当たり前のあり方になった現代で私たちが持っているマインドセットはこれに近い気がする

地位が高い者、富める者が社会に貢献するというノブレスオブリージュ的な価値観(合ってるかなこれ)も存在しているが、資本主義経済が行き渡っている社会で、自己の利益を求める態度自体に違和感を覚えることは、かなり極端な行動を誰かが起こさない限りは少ないように感じるし、お金持ちでもなんでもない普通の人たちでも、「社会への貢献よりも自分の幸福・健康・生活を大事にする」「コスパ・タイパを求める」といった態度はマリノフスキの原始的経済人の定義に近いのではないかな?と感じた

私は資本主義社会が当たり前な環境で生きてきたのでこういった態度に全く疑問を抱くことはなかったんだけど、100年前とはいえ、先陣を切って資本主義化したイギリスを知るマリノフスキの書く本にこのような記述があることを踏まえると、今の自分たちの価値観って資本主義だからこう、と言うわけではなくてもっと他の要因があるのかもしれないと思った

最近久しぶりにプロ倫を再読してるんだけど、資本主義を拡大させていったプロテスタントの倫理観と言うのも関連してくる話なのかなあ

中世の絵がなぜ下手なのか?という話

これは読書会とは違う話

私が好きな世界史系チャンネルが「中世ヨーロッパの絵はなぜ下手なのか」と言うテーマの動画を投稿していた

私は最近まで「中世ヨーロッパは暗黒時代」という言説を信じていたので、中世は古代ギリシャ・ローマで培われた技術が失われたのが原因で絵画のレベルも低かったと勘違いしていたんだけど、そうではないらしい

もしこの記事を読んでいて気になる方がいれば、私の記事よりも動画を見てほしい(本当にわかりやすくて面白いので)のだけど、中世の初期~中期の頃の絵画は芸術作品というよりかは、聖書の教えを視覚的に伝えるためのものと言う意味合いが強かったらしい

絵を描く人は芸術家というより職人であり、絵画はキリスト教にまつわる重要な場面を図示するためのものであったため、写実的な技術よりも「キリスト」「聖霊」といった記号が一目で表現できていることの方が重要だった

というわけで、中世が決して極端に劣っていたわけではなく「現代の我々が必要だと思うものが当時は必要とされていなかった。それによりその技術が発達していなかった(その代わり、絵のデフォルメなど別の技術が発達していた)」と言える

「現代人>過去の人々」というバイアスをかけるのはもったいない

上の動画はさっき貼った動画の後編なんだけど、この方が動画内で最後に語ったことが、まさに私が感じたことなので引用する

「現代の自分たちの価値観だけでは、歴史を正しく評価できないってことだな」

「今の私たちの価値観だって、未来では否定されているかもしれないわね」

「逆にいえば、今は評価されていないものが未来ではとても評価されているかもしれないぜ」

去年の冬くらいから人類学の読書会に参加したり、世界史や哲学倫理学を勉強し直したりしているんだけど

一部の優秀な人たちが後世にも影響を与えるような理論を遺しただけでなく

人間がよりよく生きることにプラスとなりそうな仕組み・制度を、昔の一般民衆がうまいことルール化して実現してたりするんだなあと実感した

当然、現代の方が昔よりも優れていそうな点も多くあるんだけど、例えばクラ交易のような仕組みは、過度に組織が構造化されて動きづらくなってしまっている環境にはプラスになりそうだ

それに、マリノフスキの原始的経済人と共通点を感じさせるような、今の私たちの生き方は、果たして過去を生きた人々と比べてより良い生き方なんだろうか?

そんな感じで、タイトルに書いたようなバイアス(私は最近まで、無意識にこのバイアスに囚われていた)を取っ払おうと努力すると、いろんな発見があるし

その発見から考えを深めたり、自分の実生活に取り入れ実践してみることで課題が解決したり、そこまでいかなくとも小さな成長を感じられたりする

そういう意味で、「昔の人たちより2024年を生きる我々の方が優れている」というバイアスが生み出す損失は計り知れないなと思いました

@kumagoro95
その日考えたことをつらつら書いています。