幸福の実現タイミングへの理解
アリストテレスのいう幸福はキリスト教の終末思想などとは違う
どこかのタイミングでいきなり実現状態になるというよりかは、日々の行いによって少しずつ実現し始めていくものである
そういう意味で、アリストテレスの幸福は、
究極目的としての「幸福」は、単にはるか遠くにあるのではなく、「いま、ここ」の自分の行為に常に意味を与え続けている。
NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 2023年 10月 [雑誌] (NHKテキスト) (p.45). Kindle 版.
善とカントによるアリストテレス批判
アリストテレスは、人間の行為は必ずなんらかの善を求めてなされるものだと言い、前を「道徳的善」「有用的善」「快楽的善」の3種に分けた
(この時点で日本語的な意味の「善」ではないことがわかる。有用とか快楽とか、そういうものもここでは善と呼ばれている)
この善に関してカントは、アリストテレス的な考え方だと、個々人の善同士が緊張関係にある時、人は自分にとっての善を優先してしまうということを指摘した
カントの義務倫理は、個々人の善には関心を持たず、人間が等しく持つ義務を遂行することを重視している。
ここまでで思ったこと
幸福の実現時期の話を読み、その後カントによる批判を読み、アリストテレスの考え方には上位存在が無く、個々の人間が主体となっているなあという印象を受けた
それに対してカントの考え方は、人間というレイヤーの一つ上になんらかの存在を感じさせる考え方だなあと思った。人と人の間に生じるコンフリクトを、一つ上のレイヤーから行動を統一することで解決しようとしたんだなあと。プログラムだとポリシークラスに近いイメージかな?
ただ、第一回でアリストテレスが倫理学を「たいていそうであるところのもの」と位置付けたように、不確定要素の多い人間の世界で、綺麗な義務・ポリシーを定義できることができるだろうか?とも思った。これはカントの義務倫理への理解を深めれば解消される疑問かもしれない
アリストテレスのいう「徳」
善と同じように、徳も日本語で一般的に使われているニュアンスとは違う
人間や他の生き物が本来生まれながらに持っており、発揮することが可能な力のことを徳(アレテー)と呼んでいるらしい
「馬のアレテー」という使い方をしたりもするようで、本当に日本語の徳と全然違う
そういえば、昔読んだメノンで「男には男の徳があり、女には女の徳が...」みたいなくだりがあったと記憶してるけど、そこで言われている徳もこういうニュアンスだったのだろうか?そう思うとかなり読み違いをしてしまっていた気がする