私は生きることが楽しい。なんだろう、楽しい。
天気がいいと楽しくて。目覚めがぱっちりでも楽しくて。ご飯が美味しいのも楽しい。いや、これは嬉しいかもしれない。とりあえず、そんなこんなで毎日が楽しい。
全く辛くないわけじゃないけど、やっぱり生きてるのが楽しいし、明日がなくなるのは怖いし、死ぬのはもったいないと思ってしまう。でも、世の中はきっと消えてしまいたい人も多いのだろう。大半の人の「死にたい」は、死にたいのではなく「消えたい」だと思うから。消えてなくなってしまいたいほど、この世は辛いことが沢山で、自分には出来ないことも多くて、誰かを傷つけてしまうこともあって。自分がいない方が、世界はマシになるんじゃないかと、そう思う日も結構あるのかもしれない。私はもうないんだけど、昔はあったときもあるから、なんとなく分かる。でも、『もうない』から、ちゃんとは分からない。
私の『楽しい』は、そういう辛いとか、苦しいとか、自分が嫌だとか、消えたいとかいった当たり前の感情から、逃げて逃げて逃げ続けた結果のものかもしれないと、時々思う。本気で思っているつもりで、私は『楽しいフリをしてる』だけかもしれない。自分のことだけどそれは分からない。少なくとも、毎日が辛くて、苦しくて、消えたいくらいしんどくなりながら頑張って生きている人の方が、現実でも物語でも魅力的に見えることはあると思う。誰だって好きでしんどくなってるわけではないと思うんだけど、私はそういう感覚を、ほとんど思い出せなくなっているから、失礼ながら悩み苦しむ人を「素敵だなぁ」と思ってしまうのだ。
落ち込むこと、悲しむこと、辛いことは私にもある。でも私は逃げるか、開き直るか、思い込むか、忘れるか。そのどれかかもしれないし、全部かもしれない。とにかく何かやった結果、生きることが楽しい人間になっている。死にたくもならないし、メンタルが低下してもびいびい泣くくらいで消えたくはならない。せいぜい「強くなりてぇ!!」と少年マンガの主人公並に叫ぶくらいである。とても生に前向きだ。
そんな私が、今思い悩んで消えたくなってる人を羨ましく思うのは大層失礼なことのように思う。それでも、世界に対して、他人に対して、その訴えが出来る人を、私は羨ましいと思う。当人たちは「弱い」とか「構ってちゃん」とか自分たちを卑下するけれど、何かしら外に発信しようと、誰かに見てほしい・聞いてほしいと努力することが出来ているのだから、すごいなと私は思う。
私はみんなみたいに生きられなくなって、多分それは私が選んできた結果で、私の人生としては良かったことなんだけど。それでもちょっと、なくしてしまった情熱が、寂しいから。
私は生きるのが楽しいし、幸せだけれど。私みたいな『感覚』の人は、あまり増えなければいいなぁと思うのです。逃げてもいいし、無理しなくていいけど、幸せのなり方は人それぞれですから。今持ってる気持ちを、感覚を、他の人には大事にしてほしいなぁと、私は身勝手にも思うのです。