『わたしたちの怪獣』なんだよね。
『わたしの怪獣』じゃないし、『あなたの怪獣』でも『あなたたちの怪獣』でもない、『わたしたちの怪獣』
その『わたしたち』には、一体どこまでが含まれるのだろう。読者である自分も、その『わたしたち』に含まれているんじゃないか。表題作を読みながら、そんな事を考える。
最初はこの短編集の表題作である『わたしたちの怪獣』について書こうと思っていたのだけれど、全て読み終えた後で考え直した。個々の作品について細かく述べるとか、個別の感想を書くというやり方じゃなく、何となく、この短編集を一冊読み終えたところで自分が抱いた印象というか、匂いというか、空気みたいなものについて書きたいと思ったから。
じゃあその『匂い』や『空気』って何なのかというと、それは『人間の不完全さというものを、極端な否定も肯定もせずに、そっと優しくすくい取って目の前に差し出してくれている様なやわらかさ』なんじゃないかと思う。そしてそういう、曖昧なものを曖昧なままで、決め切れないものを決め切らないままで、棚上げや投げ出しや諦めではなく、見守りに近い保留の状態でそっとすくい取る様に、言葉を選んで物語にするのは、きっととても難しい事だ。その難しさに正面から向き合う時、この短編集に収められている様な物語が生まれる。やわらかい、物語が。
逆に今、SNSにあふれている様な言葉は、どうしても硬くて早い。
SNSで誰かが何かを言う。それに対して他の誰かが、否定なり肯定なりの言葉をさっと被せる。それも元の発言に対して、若干食い気味に。
これは正しい。こんなのはおかしい。美しい。醜い。共感できる。理解できない。真実だ。嘘だ。事実だ。根拠がない。ファクトだ。フェイクだ。
そういう受け手の反応が、直接、それもすぐさま返ってくる。そうやって即座に反応を返す事が偉い様な、凄い事の様な空気がSNSにはある。どれだけ早く鋭い言葉で相手を射抜けるかという勝負をしているみたいに。
会話を指して『言葉のキャッチボール』なんていう表現があるけれど、キャッチボールの速度ではもう遅い。求められるのはラケットでボールを打ち返す様な速度。テニスの様なバドミントンの様な卓球の様な言葉の応酬。その素早い反射の繰り返し。より早くより正確により致命的に瞬時の判断で相手が言い返せず受けられない言葉を打ち込む。
必然的に、言葉は硬く、早くなる。より強く、断定的になる。
善悪。正しいか間違っているか。事実か嘘か。敵か味方か。
そこには、硬い言葉をぶつければ相手は傷付くのだとか、人はそれだけやわらかいものなのだという認識が欠けている気がしてしまう。
言い換えれば、人はそれぞれ(もちろん自分も含めて)それなりに適当でいい加減で、常に正しい道を選んで歩いている訳でもなければ、間違った道にそれてしまう事もあるという事だ。そしてその『正しい道』『間違った道』というものにも、客観的かつ完璧な正答は存在しない。後になって自ら振り返った時に、自分自身がどう感じるかという事でしかない。人の心や感情は数式や数字じゃない。決まった答えが無いからこそ、常に正しくある事ができる人はいないし、何事にも傷付かない強さを備えた人もいない。人はそれだけやわらかい。
これは『どっちもどっち』論の様な諦めや投げ出し方とは少し違う。自分が思う正しい道を進んで行きたいと願っても、その選択肢が与えられない事もあるし、自分でも悪い事だと気付いていても改められない悪習だってある。怒りや憎しみを手放せない時があり、悲しみで前を向けない日がある。一日、一週間、一月、一年を自分で振り返って、思わず溜息を吐いてしまう様な、澄み渡った青空でもなく、土砂降りの雨でもない、どっちつかずの薄曇りの様な、そういう、悪いとは分かっていても、正しくないと思いつつも、自分の中から切り離せない、捨てられない部分を抱えてしまっている自覚の様な、脆さの様な、苦みの様な、それら全てを内包した上でのやわらかさがある。
例えば表題作の『わたしたちの怪獣』に登場する家族やそれを囲む登場人物たちが、みんなどこかしら『正しくないわたし』を背負っている様に。
仕事を失い、実の娘を虐待する様になった父親。虐待に耐えかねてその父を殺してしまったあゆむ。父から妹への虐待を止められずにいた姉のつかさ。姉妹を置いて家を出た母親。その家庭崩壊の原因のひとつになったであろうネットリンチ。結果的にネットリンチに加担した、無数の、名も無い、善意と正義の『わたしたち』
みんながみんな、どこか肯定できない、正しくない、悪い部分を持っている。
でもこの短編集では、そんなわたしたちの正しくなさを、悪い部分を、断罪したり糾弾したりする事はない。かといって無理矢理に肯定するのでもないし、人間なんてしょせんそんなものだよ、と諦めてしまう訳でもない。そこにあるのは「人ってそういうものかもしれないよね、でも」という、『やわらかい受け止め』なんじゃないかと思う。
キャッチボールで、相手が投げてきた球をとりあえずキャッチして、急いで投げ返さずに、一拍置いて、胸の前でそっとその表面を撫でてみる様な。
だからだろうか、収録作はどれも『明確な結末』を描写する事を避ける。作者から読者に向けて投げられたボールには、まだ物語の途中の様な、この先に続きがあるような間があって、読者側に自分がどんな受け止め方をしたのか、どんな響き方をしたのかを考えるだけの時間を与えてくれている。
映画でも、テレビドラマやアニメでも、漫画でも、もちろん小説でも、余韻を持たせたラストシーンの後に、受け手側から「結局あの後どうなったんですか?」という問いが投げ返される様になった気がする。自分たち受け手の側が、作者から明確な正解が与えられない事に居心地の悪さを感じる様になってしまったのか、自分自身で想像力を働かせる事に疲れてしまったのか、他の人と違う受け止め方をする事を間違いだと感じて、その間違う事を極端に怖がる様になってしまったのか、あるいはその全部かは分からないけれど、でも待って欲しい。そんなになんでもかんでも急いではっきりと確定させなくていいんじゃないか。何かを正しい事だと決めてしまえば、そこからこぼれ落ちたものは正しくなかった事になる。間違っていた事に、悪かった事になる。白黒をはっきりさせるという事は、正しいものとそうでないものとの間に線を引くという事だ。両者が混ざり合わない様に分断するという事だ。そんな現実の『硬さ』が物語の中にまで持ち込まれてしまえば、『わたしたち』の曖昧さや弱さをやわらかく受け止めてくれる場所は、もうどこにも無くなってしまうのではないか。
やわらかい物語が失われる時、わたしたちの弱さや正しくなさは、常に誰かの発する硬く早く鋭く正しい言葉で撃ち抜かれ、砕かれる様になるのだろうし、正しくないものとして、分断線の向こう側に置かれる様になるのかもしれない。そんな場所で、果たして自分はどれだけ生きていられるだろうか。
自分が本作を読んで思うのは、そんな事だ。
わたしは脆い。わたしは決して善人じゃないし、常に正しくもない。わたしは自己中心的で、時に他者を傷付ける。だからこそわたしは、わたしたちは、こんなやわらかい物語を必要としている。わたしが不完全なわたしのまま、もう少し生きていられる様にと願うから。まだ、そう願ってしまうから。