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殻の向こう側にいる、貴方へ・石川博品『魂たち』

黒犬
·
公開:2025/6/8

 『ボクは再生数、ボクは死』のスピンオフ短編集、と銘打たれているけれど、別に本作単品で読んでも何ら問題無い様に思う。前提として理解しておかなければならないのは、本作では現実よりも進んだVR技術が普及していて、多くの人が仮想世界にアバターを置いて、現実と仮想空間を行き来しながら暮らしているという事だけ。

 本編である 『ボクは再生数、ボクは死』が刊行されてから5年経って、それでもまだ現実は作中の様に大規模なVR世界を実現してはいない。『メタバース』や『VRChat』なんかが話題になったりもしたけれどね。その代わりにコロナ禍を経て、企業の研修や面接なんかで当たり前に『Zoom』が使われる様にはなったし、日進月歩のAI技術から『AI面接官』なんていうものが生まれたりもした。AI面接官は「人間の面接官の様に、求職者の第一印象などの先入観にとらわれない」とか「面接官の人手不足や面接にかけられる時間の制約を受けない」などといったメリットがあるとされている。また企業以外の個人利用の範囲でも「AIに日常的な話し相手や愚痴聞き役になってもらう」なんて事までが普通になりつつある今、「人間の魂に紐づいたアバターが暮らす仮想世界」が実現するのが先か、「画面の向こうから人に語りかけてくるAI」が受け入れられるのが先か、みたいな話が現実味を帯び始めている気がする。

 実際、『X』上で人間の質問に答えるAIチャットボットの『Grok』は急速に普及していて、既に多数のユーザーを抱えていたSNSに追加機能としてAIをぶち込めばそりゃあっという間に普及するよな、と思う反面、人がコミュニケーションを求める時に、相手の中に生身を持った生きている人間の『魂』がなくても別に構わないという所まであっさり進んで行ってしまった事に対する居心地の悪さや怖さみたいなものを感じたりもする。少なくとも、自分は。

 既にAIは絵を描き作曲し歌も歌い、何なら小説だって書く。すると何が起きるかといえば、そのAIが出力する様々な表現の受け手である人間の側が、AIの表現を読み取って、AIの性格や人格、AIの魂の形を想像する様になる。本来そこには何も無いのに。例えばGrokの妙に人間くさい砕けた口調も、知ったかぶりして適当な事を言い、間違った答えをそのまま教えようとしてくる、人を食った様な態度も、「こういうヤツ」という人間じみた『個性』として受け入れてしまいそうになる。そんなバカな、と思うかもしれないけれど、ネコ型の配膳ロボットが良い例だ。あれはもちろんネコではないし生きてもいない。ただのセンサー付き自動配膳台だ。あれがただの無機質な四角い配膳台だったら、客からもっとぞんざいに扱われていたと思う。邪魔だって言って叩かれたり蹴られたりね。でもそこにネコというキャラクターが付与される事で、通路を塞いで立ち往生していたって何となく許されるし、許さなきゃならない気にさせられている。その中にネコの魂なんてなくても、自分たちは「かわいい形」という殻の向こう側に「かわいいネコの魂」を勝手に想像する。で、それが成立するんだったらVR空間だってキャラクターの『中の人』が存在する『MMORPG』である必要はなくて、自分以外全員がAIの『シングルプレイヤーRPG』だっていいという事になってしまう。

 それなら本作だって『魂たち』である必要はないのか?

 広大なVR空間を作って、その箱庭の中にそれぞれの魂を持った人間たちが集って、理想や空想や可能性の自分を演じる中で互いに触れ合うのではなく、自分ひとりのための箱庭の中に、あるいは現実のモニターの向こう側に、友人の様に、恋人の様に、家族の様に語りかけてくれるAIのNPCがいてくれればそれで良いのか。

 自分たちは誰に愛されたいんだろう。誰に認められたいんだろう。

 少なくとも本作は、『魂たち』という時点で、そこには魂を持つ他者との結び付きがあって欲しいと願って書かれているのではないかと思う。それもまあ、小説という表現の向こう側にいる作者に対して、読者である自分が勝手に想像した印象でしかないと言ってしまえばそうなのだけれど。それでも、作中である人物が『あなたとちがう、みんなともちがう特別なわたしを愛してほしい』と言った様に、また別の人物が『わたしはちがう。その距離をも愛する。あらゆるものから隔てられて、それでもわたしは愛することをやめない』と言った様に、VRの仮想空間の中で、アバターという殻をまとったその中にある「わたし」を、同じ様に殻を隔てて触れ合っている、他の誰でもない「あなた」に愛してほしいという願いを、人は持つのだと思う。

 他者の存在を求めるという事、他者の魂が自分の側にいる事を願うという事は、当然すれ違ったり互いに傷付け合ったりする事も起こり得るという事で、憎しみや拒絶と言った負の感情が生まれる可能性も含むという事になる。芸能人や動画配信者が多数のファンに囲まれる一方でアンチにもつきまとわれる様に。現実の人間関係が優しいものだけではない様に。仮想空間の中でなら、そういった自分を傷付けるおそれのある『他者』を全て排除して、一人遊びの箱庭を作る事もできる様になるのだろうし、既にそうなりつつあるかもしれない。他者の魂を排除した後の空席を、魂を持たないAIが埋めて行くのかもしれない。その前提に立って、他者の存在=魂を求めるのか、拒絶するのか、どちらの未来を描くかという時、現実に生きる自分たちが、本作がそうである様に『他者の存在を肯定する事で自らを肯定する物語』の方をこそ選び取る事ができるのかどうか。

 そこが、例えばまた5年後、10年後に本作を振り返った時に答え合わせになる様な気がする。5年前の『ボクは再生数、ボクは死』を、2025年現在の自分が振り返る様に、今度は2030年から本作『魂たち』を振り返った時に、自分たちがまだ他者の存在、その魂を肯定できる側でいられたのかどうかが分かる。

 その未来が、本作で願われた『魂たち』の存在を肯定する物語の延長線上にあって欲しい。

 まだ他者を、自分を肯定できる未来であって欲しい。

 2025年の自分は今、そう思っている。

@kuroinu2501
あまり吠えない犬です。