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『世界で一番』になれない僕らのために

黒犬
·
公開:2025/4/7

 この元記事を読んでの違和感を言葉にしたくて書いてみた。

 『「女の子は美しく従順であれば、地位と金のある男性に愛されて結婚し、幸福になれる」という、家父長制的な価値観を前提とした原則に基づいた展開』

 『白雪姫』って、そんな話でしたっけ?

 元記事を読んだ自分が感じたのは、そんな違和感だった。

 物語には色々な読み方がある。本来「これが正解」と言い切れるものでもない。

 読者の数だけ読み方に幅がある事。様々な角度から見て、楽しんだり感銘を受けたりできる事。それが物語に触れるという事だと、自分は思う。

 だからこれから自分が書く事も、何か専門的な知見や研究を元にした「ちゃんとした」文章という訳では無い。単なる『昔そこそこ読書や映画が好きだった中年男性の感想』の域を出ない。でも何となく、自分はこの記事に書かれた『プリンセスの基本原則』という、ジェンダー論に基づく白雪姫の定義のしかたには違和感を覚える。

 もっとも、自分は今回の『実写版(リイマジニング版)白雪姫』を観てもいないし、原作版として扱われているディズニーアニメ版にも特に思い入れはないし、その更に原作のグリム童話版に特別詳しいかというとそんな事もない。それでも、『「女の子は美しく従順であれば、地位と金のある男性に愛されて結婚し、幸福になれる」という、家父長制的な価値観を前提とした原則に基づいた展開』を踏むのが原作の白雪姫の物語だ、という見解には違和感がある。白雪姫という物語の本質は、家父長制がどうこう、という場所にはない気がしてしまう。

 もっと言えば、自分は白雪姫その人に、物語の主人公としての『意思』をあまり感じない。それは『主体性』と言い換えてもいい。自分にとっては、白雪姫も、彼女を見初める王子も、王妃の物語を語るための舞台装置の様にさえ感じる。

 自分から見た『白雪姫』は、『自分を愛せない王妃(継母)』の物語だ。

 この文章を書くにあたって、グリム童話の初版本では王妃は継母ではなく実母だった、という事を知ったのだけれど、王妃が継母であれ実母であれ、彼女が『世界で一番美しいのは誰?』と魔法の鏡に問い掛ける事、そしてある時からそれが自分ではなく、娘である白雪姫に変わってしまう事、その展開は一致している。これは男目線で見ると、『自らの美しさ(若さ・強さ)が失われて行く事に対する怯え』であって、もっと言えば、『自らの美しさが失われて行く時、同時に失ってしまうもの』に何を据えるかによって、いくつかの物語が作れる『寓話としての骨格』が存在している様に思う。だから『白雪姫』という物語は、継母を父王に、白雪姫を王子に書き換えても成立する。

 美しさや若さとともに失われるものを『異性からの寵愛』とすれば愛の物語になる。また『美しい自分という自尊心』とすれば、それは誇り、プライドの物語になる。このふたつを複合すれば『自己肯定感』を追い求める物語になるし、『求心力・権力・王権』などとすれば、より男性的な権力志向の物語になる。

 童話としての『白雪姫』は、『自己肯定を求める物語』なんだろうと思う。あくまでも自分は。

 若さが失われる時、王妃が失う事になるのは『王からの寵愛』だ。実母であれば白雪姫は若かりし頃の自分だし、継母であれば王が愛した前王妃の面影を宿す若い女だ。魔法の鏡に映るのは『自らの老い』であって、魔法の鏡の言葉は王妃の自己認識だ。自分こそが世界で一番美しいというかつての自己認識。それを脅かす老いの影。美しく成長して行く娘。その娘に自らの地位を脅かされるのではないかという焦り。そして世界で一番美しいのはもう自分ではないという事を、王妃は内心で認めてしまう。

「世界で一番美しい女性は、白雪姫です」

 その言葉は魔法の鏡が発した言葉じゃなく、きっと鏡に映った自分が呟いた言葉だ。

 この時の『世界』は王妃と彼女の人生を中心とした『世界』であって、本当に世界中の女性を比較して、その中で誰が最も美しい女性か、という問いではない様に思う。王妃の目に映る『私の世界』の中で、『私=王妃』は若い白雪姫に、『世界で最も美しい私』という自尊心を傷付けられる。それは『私』が殺されるという事だ。だからもう、白雪姫の命を奪うしかない。かつての『私』を取り戻す為に。

 男性の自分から見た『白雪姫』は、こういう濃密な『女性の自己認識』の話で、むしろ王や、白雪姫を見初める王子といった男性陣は『空気』でしかない。『家父長制的な価値観』と特筆する程の存在感を感じない。

 もし、『白雪姫』という物語に男の影響があるとすれば、それは当の女性の自尊心や自己肯定感の拠り所が『異性(この場合男性)からの愛』と定められている事だ。王からの寵愛を受ける事。王子に見初められる事。元記事からすればそれこそが『地位と金』が男性に握られている、家父長制を前提とした社会構造ゆえ、という事になるのだろう。おとぎ話の世界で女性が幸せになること。『Happily Ever After』で物語を結ぶ為には、『男に愛される私≒世界で一番美しい私』でなければならない、という。

 でも、この前提自体が、現実ではもう古いし、童話という物語構造の中の話にしても、他のものでいくらでも置き換えられる。

 ルッキズムの元になる様な、異性との恋愛や結婚を前提とした人生観とか、男性に紐付けられた地位と金とか、そういうものに寄りかからずとも、現実の女性が自らを肯定する事はできる。でもその一方で、悪質ホストにはまる様な『他者からの肯定』に飢えた人たちがいるし、男性だって『弱者男性』という自己認識の上で、『異性から愛されない自分』を卑下し、それを女性蔑視に繋げてしまう人たちがいる。共通しているのは『自分を肯定的に捉えられない』という事だ。自分が嫌いだから、「世界で一番美しいのは自分じゃない」「自分の世界の中心が、自分じゃない」事に打ちのめされ続ける。自分で自分が認められない。自分で自分が許せない。自分で自分を愛してあげられない。だから他者からの肯定に飢え続ける。

 みんながみんな、『白雪姫の王妃』みたいに生きている。

 『自分の世界の中ですら一番じゃない自分』を抱えて傷付いている。

 そんな社会で、世界で、『リイマジニング』される白雪姫が、こんな『薄っぺらい実写版』で良かったんだろうか?

 「白雪姫の肌が白人のように白い必要はない」とか「王子に愛されるのを待つ白雪姫像を破壊しよう」とか、そんな薄味のリイマジニングで満足するのか? それで傷付いた王妃を、自分たちひとりひとりを救えるのか?

 本当にリイマジニングが必要ならば、それは『マレフィセント』と同じくらい徹底してやる必要があったんじゃないかと思う。大事なのは白雪姫を強い女性として描き直し、悪しき家父長制の象徴として祭り上げられた、生贄としての悪い王妃を打倒させる事じゃなく、『自らを愛せない王妃(私たち)』をどうするか、世界で一番になれない私たちをどうするか、自分で自分を愛せない私たちをどうするか、それでも生きて行かなければならない私たちをどうするかっていう事だった。

 自分が観たい『実写版(リイマジニング版)白雪姫』っていうのは、きっとそういうものだ。

 女性とか男性とかジェンダー対立とかじゃない。「ポリコレ、DEIが悪い」とかでもない。むしろそれらが薄い。そして方向性がズレている。もっと真面目に、真剣に、濃くて深いものを目指さなきゃいけない。性別による分断や対立煽りじゃなく、もっと広い、女性も男性も包摂した『私たち』が、鏡に映った『自分を愛せない自分』に、何と問い掛ければいいのか考えられる様な、大きな器になり得る物語が観たかった。

 元記事の白雪姫論や、実写版白雪姫に対して自分が感じる違和感やわだかまりの正体は、きっとこの認識のズレにあるんだろうって思う。うまく語れた気はしないけれど。

@kuroinu2501
あまり吠えない犬です。