※商業出版されている作品ではないので、最初に作品のURLを貼っておきます。(注・R18)
物語の性質として、全く同じではないのだろうけれど、自分はなぜか本作を読んで映画『トゥルーマン・ショー』の事を思い出したりしていた。あの映画は、特別映画好きだとか詳しいだとかいう訳でもない自分の様な人間でも、一度観たら忘れる事はないだろうと思える、そんな映画だ。
主人公のトゥルーマン・バーバンクを演じるのはジム・キャリーで、『マスク』の印象が強い人なんかは「あー、あの顔芸が凄い俳優さんね」「コメディアンの方だよね」という感じだとは思う。実際に彼の芸は凄くて印象に残る。でも自分は『トゥルーマン・ショー』の、作られた世界の外側に出て行こうとする時の彼の何とも言えない表情が好きだ。
あの映画について繰り返し説明する事はしないけれど、映画がそうだった様に、自分がこうだ、と信じている世界の形が崩れて行くのは、夢から覚める様な出来事だ。でも夢から覚めた先に待っている現実が良いものだとも限らない。自分が現実として生きて来た場所がひび割れ、壊れてしまった時に、自分が正気でいられる保証もない。両親や友人や同僚だと思っていた人々が全て演者で、自分だけがそれを知らなくて、本物だと思っていた人生は誰かに仕組まれたもので、誰かにとっての娯楽だった。そういう『現実の底が抜ける』様な、『世界が壊れる』様な体験の後に、自分自身という柱を、どうやって立て直す事ができるか。
そうした物語を描く時に、『暴力』や『復讐』を排除しなければ、きっと本作『レドゥンハート』の様な物語になる。そんな気がする。
14歳の少年が、壊れた自分の世界に向き合う時に『暴力』を軸にするというのは、本人にもその気は無かったんだろうという点を含めても、嫌なリアルさがある。暴力の撃発が先に来て、「ああ、自分はこういう暴発をするくらいには怒りや喪失感を抱えていたんだ」という実感が後から付いて来る様な。それはいじめた側というか加害者側も同じで、散々酷い事をやって相手を追い込むような要求をしておいて、その反撃が暴力の形を取って来るという事をひとつも想定していない様に見える辺りが、『無邪気』だなと思う。悪い意味で。
「ここまで追い詰めれば当然相手は怒るだろう」とか、「この辺にしておかないと相手だって収まりが付かなくなるだろう」とか、そういう見通しや加減が一切無くて、逆に「どこまでやったらこいつキレんのかな」みたいな試し行動を無自覚に繰り返しているうちに取り返しが付かなくなる過程が実話じみていて怖い。これがいわゆる創作の「いじめられっ子の復讐劇」にありがちな、近年なら『ざまぁ系』と呼ばれたりする様な物語なら、復讐に走る側はもっと読者の感情移入を促す様な「彼は1ミリも悪くないんですよ」という設定に守られて出てくるし、復讐の内容も「酷い事をした奴の因果応報」の範囲で済む様に手加減される。いきなり顔面を破壊されたり股間を潰されたりはしない。じゃあ『レドゥンハート』が「こうなる」のはなぜか。
この復讐劇は読者を気持ち良くさせるためのものではないから。
この物語は読者の安全を保証していないから。
徹頭徹尾、そういう事に尽きる。
復讐劇は、『因果応報』と『勧善懲悪』の過程を踏むから受け手にとっての娯楽になる。『ざまぁ系』にしろ『時代劇』にしろ、酷い事をしている奴が報いを受ける。その報いの形も様式美というか、型にはまっている。特に時代劇なんかはそうだ。それを見ている側の想定を超える事がなく、毎回収まるべきところに収まる。例えるなら動物園で見る虎や豹やライオンは檻の中に入っていて、決して入場者を襲っては来ない。でもレドゥンハートで描かれる暴力は、山から人里に降りて来た熊に似ている。無害じゃないし、安全でもない。大人しく檻の中に入ってはいないし、文字通り出会い頭に牙を剥いてくる。
そしてレドゥンハートの『山』は、一種の異界として描かれる。
今の御時世、どんな田舎だろうが(自分が住んでいるのも大概田舎の部類だが)携帯の電波は届くしインターネット回線だって引かれている。通販だって届く。「人里離れた」というのは言い回しとしては存在するが、そこに人が住んでいれば、そこでの暮らしというのは町中と大差ない。その山の中に、外界から隔絶された狩猟小屋の様な場所を作って、本作で言えば雑賀将路の様な男を主(ヌシ)として、異界を作る。異界というのは人間の法や倫理の拘束が及ばないという意味だ。雑賀将路は「俺を不愉快にさせるな」という理由で簡単に人を平手打ちする様な男だが、そこで傷害罪だの喚いても何にもならない。ただ、全くの無法という訳でもない。狩猟免許の有無を気にしてみたりもする。社会性だってある。ただ少なくとも、この『山』という異界の中では、自分はやりたい様にする。我を通す。そういう意味で、異界と異界の主は存在する。
その異界に、本作の主人公である櫻井雪道は入り込む。自分自身という『我』のあり方を見失いかけている男が。
周囲の反応を見て、その中に溶け込もう、期待に応えよう、皆を笑わせよう、それで自分の居場所を確保しよう、そんな風に振る舞う事で生きて来て、でもそれは一方的な期待でしかなくて、結局は自分の居場所なんて無かった。自分だけが輪の中にいなかった。自分にろくでもない要求をしてくる連中を、仲間だ、友人だと思えば耐えられていた事も、結局はそうじゃなかった。
そういう形で、これまでいた世界が壊れてしまった中学二年生が、山という異界に辿り着いて、自分が何者なのか、何ができるのか、どれだけ生きる力があるのかを問われる。そこで誰かの生き方を真似したり、他者の名前を借りたり、別の誰かの復讐の為の走狗になったり、自分にはない他者の強さに打ちのめされたりする。そして最後に、自分自身に帰って来る。自己を、自分の願いを再発見する。主人公の言動がぶれている様に思えるのは彼が自分を再発見する過程を描いているからで、物語の骨格としては凄くシンプルな『願い』の話であり、『信仰』と『祈り』の話でもある。そういう意味では、作者の江波氏がかつてガガガ文庫で書いた『パニッシュメント』とも連続していて、商業出版ではない『レドゥンハート』がそこに繋がって行くのは面白い。商業出版ではない(編集者の手が入らない)事、随時更新されていくライブ感、それもレドゥンハートの面白さではあるけれど、むしろそれでも変わらなかった部分に物語の核があるんじゃないかと自分は思ってしまう。勝手に。
自分ひとりではたどり着けない場所に、救いがある。
他者との関係性の中に、救いを求めて行く。
他者との関係性に傷付き、他者の存在があるからこそ加害を受け、自分もまた誰かを傷付け、どうしようもない場所に落ちて行って、でも最後には他者と手を取り合える場所に、抱き合える場所に帰って来る--とか書くと夢を見過ぎだと思われるかもしれないが。
『一切衆生慈悲切痕』
『消えない傷は全てのもんにとって救いになる』
もちろん、作中のこの言葉は造語で、仏教的に正しく言えば 『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)』となる。詳しくは説明しないけれど、人と人の間にあって、誰も彼もが傷を抱えて生きている中で、その消えない傷が慈悲であり救いだという教義は『作り物』であったとしても、それを信じようとした人々の姿を重ねてみれば、これもまた傷として生々しい。傷を負わずに生きている人などいないから。
傷付かずに生きて行く事ができないなら、その傷に意味を見出すしかない。ただ傷付いただけじゃない。ただ自分の価値が損なわれた訳じゃない。自分の傷には意味があった。価値があったんだと思うしかない。それを自分自身の勝手な思い込みじゃなく、いつか本当の価値にするしかない。実際にそうできる人間の強さを、作中では瀬名三砂都が体現して見せている。『負っけんなよ、おい。負けたら、負けだかんな』って奴だ。
大なり小なり、現実に皆がそうやってもがいている。その事に自覚的に、向き合い続けた結果が、『パニッシュメント』から『レドゥンハート』へと連続しているし、他の作品にも通底している。そう思うし、その作品を世に出すやり方が、場所が、今回はこういう形だったという事なのかな、と勝手に納得してもいる。読者というのは結局、そういう勝手な生き物だ。というところで、今回は以上。