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ジオンを想いながら『15の夜』を聴くとき

黒犬
·
公開:2025/2/16

 何かSNSで『機動戦士ガンダムでジオンを支持してた奴おかしくね?』『デラーズ・フリートも星の屑作戦とか言って、ただのテロリストじゃん』的な書き込みを見た。そうだね。まあ伝わんないよね、と思う。だから機動戦士ガンダムシリーズと、ほぼ同い年おじさんである自分は、ちょっとだけその『伝わらなさ』の理由を書いておくべきなんじゃないかと思った。

 今、奇しくも『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』(ジークアクス)が公開された事で機動戦士ガンダムと一年戦争が再注目されているけれど、多分、ジークアクスを100回観ても、ジオンが何でコロニー落としや一年戦争なんてものを始めたのかはぼんやりとしか伝わらないんじゃないかと思う。もちろん、ジークアクスのメインはこれから始まるマチュ達の新しい物語にあって、『Beginning』部分はとても贅沢なオマケみたいなものだから、それはそれでいいし、おじさんもその方が嬉しい。でも、もしかしたら、これからさかのぼって『機動戦士ガンダム』を見るよっていう人がいるかもしれないから、このジオン側の動機の『伝わらなさ』について、自分なりに補助線を引いておきたかった。

 じゃあこの『伝わらなさ』って何だろうと思うと、それはやっぱり『今の若い人、尾崎豊の歌がもう分かんない問題』に行き着くんじゃないかと自分は思う。『卒業』とか『15の夜』とかさ。聴いた事ないっていう人はちょっとYouTubeやSpotifyなんかで聴いてみてよ。

 本当の機動戦士ガンダム直撃世代は、自分よりもう少し年上の、今50代くらいの方々なんだろうけど、尾崎豊もまあ似た様な感じで、当時の熱狂はそれはもう凄いものがあった。でも今じゃ若い人が『15の夜』を聴いても「『盗んだバイクで走り出す』って何だよ。バイク盗んでんじゃねーよ。盗まれた人かわいそうだろ」みたいなリアクションが帰ってくるのが普通になっちゃったらしいね。その感覚って、現代では正しいんだよ。バイクは盗んじゃダメだし、バイク盗む奴は窃盗犯だから。じゃあ何で尾崎豊の歌が支持されたのかっていうと、それは当時の若者が置かれていた時代背景とセットだったから。そして当時の若者の共感を集めていたからなんだよね。

 それが今『全然わからない』『共感できない』っていう評価を受ける様になってしまったのは、歌が劣化した訳じゃなく、それを聴く現在の若者を取り巻く大人社会と、思春期の若者の価値観が変容してしまったからなんだと思う。同じ事が、機動戦士ガンダムにおけるジオンにも当てはまる。

 ジオンを支持できるかできないかって、それはやっぱり「『コロニー落とし』をやった奴らが正しいなんて事があり得るか」っていう、物語の冒頭部分で、ナレーションで語られる虐殺についてどう受け止めるかの問題に起因していて、現代人はもうあれを最悪のテロとして捉える様になっているからなんだろうっていうのは、誰でも分かる事だ。それに対して地球連邦政府がどれだけ腐敗していようと、宇宙移民、スペースノイドがどれだけ地球連邦政府に舐められ、軽く扱われ、宇宙移民なんて言っても結局それは『棄民』だったんじゃないかっていうわだかまりを抱えていようと、そんなものは『コロニー落としという大罪』を帳消しにできるものではない、という方に、視聴者の価値観の天秤は傾いている。尾崎豊の歌に対して、バイク盗むのは犯罪だろって言うのと同じで。それはなぜか?

 言ってみれば、『ジオン側の切実さ』というよりも、ザビ家の権力志向と覇権主義に利用されてしまった『スペースノイド側の切実さ』を視聴者に伝えていたものっていうのは、機動戦士ガンダムが放送開始された1979年当時の時代背景だったんだろうと思う。それが崩れた今、ジオン側の主張を擁護してくれるものも、もう失われてしまった。

 じゃあその時代背景って何だったのかと言うと、それは『環境問題』であり、「もしかしたらこの先、地球上で人類が生き続けるのって無理じゃないか?」「今の経済成長って、もうそろそろ破綻するんじゃないか?」という世紀末に向かって行く時代特有の『終末感』だったんだろうと思う。

 『機動戦士ガンダム』の放送開始が1979年。『ノストラダムスの大予言』なんていう五島勉が書いた与太話が大ヒットしたのが1973年で、1999年に世界が滅ぶかもしれないなんて言われていた時代だ。今となっては苦笑するしかないけど、当時はみんな「1999年って、その時自分は何歳なんだっけ?」って考えたよね。

 今の人からすれば『情弱』の一言で済まされるかもしれない、情けない話だけど、当時はインターネットなんて普及していなかったし、ファクトチェックなんていう言葉も無いし、何なら携帯電話もメールもSNSもないし、こういうスケールの大きな与太話がまだまかり通った時代だった。時を同じくして始まった『第1次オイルショック』もその後押しをしたかもしれない。第四次中東戦争が始まって、原油価格が高騰し、日本もパニックになった。当時の子どもが大人になる頃には、化石燃料は枯渇するかもしれないって言われていた。(実際は採掘技術の向上などで枯渇期限は延び続け、2025年現在では「石油は2060年代に枯渇する可能性がある」と試算されているらしい。それもまた延びるかもしれないけど)

 人口爆発や環境破壊(『オゾンホール』って知ってる?)の問題も、今よりもっと切実に考えられていた。今じゃ環境活動家が美術館の展示品にペンキをぶちまける姿が批判の的になっている(自分もあれはどうかと思う)けれど、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でシャアが『地球が持たん時が来ているのだ!』と叫んだのは1988年だった。当時はその言葉の切実さはもっと重く受け止められていたし、その流れを受けて富野由悠季の小説『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』が角川スニーカー文庫から刊行されたのが1989年だ。当時、自分は10歳だった。

 話は若干脱線するけれど、2021年に『閃光のハサウェイ』がアニメ映画化された時、自分は観に行くつもりでいた。でも、劇中に登場するタクシードライバーがハサウェイ(マフティー)に言った『暇なんだねぇ、その人さ』『暮らしって、そんな先考えてる暇ぁ無いやね』という台詞の方が共感を集めていると聞いて、怖くなって、観に行くのを止めた。今も観ていない。

 閃光のハサウェイが小説から映画化されるまでの間に、環境問題に対しての自分達の意識はすっかり風化してしまっていた。世紀末を過ぎても人類は滅びなかったし、化石燃料の枯渇もまだ先の事になった。機動戦士ガンダムの世界では、コロニー内の限りある空気を汚さないためにエレカという電気自動車が使われていたけれど、現実の自動車の電動化推進は「何かハイブリッド車の技術でトヨタに勝てない欧州の自動車メーカーが仕組んだ、トヨタ潰しの陰謀」という話がバズる様になっていた。確かにそういう側面もあったのかもしれないけどね。そもそも自動車が電動化しても、充電する電気を火力発電で作っているのでは問題解決にならない訳だし。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるじゃないけど、環境問題に取り組む事が『暇人の仕事』『暮らしに余裕がある奴の道楽』になった世界で、自分は大切なものを裏切った様な気がした。

 10代だった自分を、あの時のハサウェイを、裏切った。

 当時の大人からの期待を裏切った。『次のマフティー』になる事は出来なかった。それは武器を取ってテロをやれとか、美術館で名画にペンキをぶちまけて叫び声を上げろとか、そういう事じゃない。今の完全ではない社会の中で、どんな風に生きるのか、生きるべきなのか、自分の事だけじゃなく、その次の世代の事まで考えられる様になりなさい、という事だ。責任ある大人の振る舞いをしなさいという事だ。

 でも自分は、当時大人から受け取った期待には応えられなかった。

 自分自身が生活するので手一杯だった。映画の中のタクシードライバーは自分だったんだろうと思う。

 だから映画版の閃光のハサウェイに向き合うのが怖かった。それはハサウェイを裏切った自分を観に行くのと同じ事だったから。

 話を戻す。

 この時代背景から切り離された上で『機動戦士ガンダム』という作品が語られる時、ジオン側が(というよりもスペースノイド側が)視聴者からの共感を失うのは分かる気がする。宇宙移民が『棄民』だったのではないかという問題は『機動戦士ガンダムUC』でも少し語られてはいたけれどね。

 ガンダム世界におけるスペースコロニーって言うのは、人が生きる基盤としては脆い。それを人類の新たなフロンティア、希望の未来と喧伝し、推進したであろう地球連邦政府の高官は、地球に残った。地球から宇宙を支配しようとした。地球環境の保全、持続可能な人類の発展のためという錦の御旗を掲げて宇宙移民者をスペースコロニーに住まわせておいて、自分達は地球という大きなゆりかごに甘えた。『地球の重力に魂を引かれた人間』『地球の重力に魂を縛られた人々』っていうガンダムシリーズ特有の言い回しは、ニュータイプ論を極端に解釈したスペースノイド側の選民思想というだけじゃなく、地球という、スペースコロニーに比べれば遥かに広大な環境の中で、環境破壊に鈍感で甘えた暮らしをしているくせに特権的地位を占める地球連邦政府高官への反発だっただろうし、仮に戦争でも起きなければ彼等がその態度を改める事はおろか、疑問に思う事すら未来永劫無かったはずだ。(だからといって戦争を仕掛けても良いか、コロニーを地球に落としても許されるか、ザビ家は自分達が支配者側になりたかっただけなんじゃないか、というのは別の話として)

 それは現実の様々な移民政策や、その失敗と犠牲に置き換えて考える事もできる。

 ガンダムに限らず「アニメの知識をベースに現実を語るな」とはよく言われるけど、逆にアニメっていうのは現実の社会問題や歴史をベースに作られているし、それに触れる自分達も、『今生きている社会の価値観』という眼鏡を通してアニメを観ている所がある。環境問題に対する意識の差もそうだし、移民政策に対する解像度の違いもそうだ。だから令和の今になって「ジオンのどこに正当性があるの?」という意見に賛同が集まるというのは、それだけ自分達の暮らす社会の価値観、その軸足がずれて行ったという事なんじゃないかって思う。令和の今、昭和の尾崎豊の歌に共感できない若者がいるという事と同じで。

 じゃあ結局、ジオンに正当性は無かった、彼等はただ大量虐殺を引き起こした戦犯だった、デラーズ・フリートもマフティーも同様に単なるテロリストだった、人は不満を抱えながらでも地球連邦政府が構築する秩序に従って生きるべきだった、という価値観がこれからの主流になって行き、ジオン側に立ったものの見方は古い価値観として廃れて行くのかというと、それを見越して両者に橋をかけ、行き来できる様にこんな文章を書き残しておくというのが自分の立場なんじゃないかと思う。

 ジオンがなぜ支持されたか。尾崎豊の歌はなぜ若者に聴かれたのか。

 現代の若者が、今となっては想像で埋める事が難しいその当時の『時代の空気』みたいなものを、忘れないうちにどこかに書いておく事。だって自分だって忘れてしまうから。

 『次のマフティー』を育てるみたいな、立派な事は言えない。自分はケネスの様な立派な大人じゃないからだ。今日の事しか追いかけられないタクシードライバーだからだ。でも、そういう人間にすら、こんな文章を書かせるのが『機動戦士ガンダム』なんだろうし、その物語は、誰が正義で誰が悪かっていう単純化された筋書きには収まらないものだったんだよっていう事は、もう少し広まると嬉しい。

 そう、おじさんは思うんだよ。

@kuroinu2501
あまり吠えない犬です。