自分は、「上遠野浩平は常に『今』を描く作家だ」と勝手に思っている。本人にそのつもりがあるかどうかは確かめようがないけれど。
小説というのは、作中世界が現代だろうと、遠い過去や未来、あるいは異世界の話であろうと、作者が今を生きている限りは刊行当時の『今』をある程度反映していると言える。作者が感じている『今』は、どんな小説であれ作品に一定の影響を及ぼす。何もない所から物語は生まれて来ない。どんな小説にも作者という『物語る主体』がいる。生成AIが吐き出したものでなければ。
ただ自分が「上遠野浩平は常に『今』を描く作家だ」という時、そのスポットライトがあてられた『今』は一般的な意味よりももう少し狭く、深く、鋭い。
上遠野浩平が『今』を描くというのは、もちろん代表作である『ブギーポップ』シリーズの舞台が現代だからというだけの話ではない。というか、ブギーポップの作中世界における『現在』とは、1998年に第一作目の『ブギーポップは笑わない』が刊行された当時の『現在』なのであって、2026年6月に本作『ブギーポップ・クルシファイ リミットグレイの妖精逆説』が刊行された28年後の今現在ではない。作中世界は30年近く前の『過去を写し取った現在』のまま固定されている。それは例えばスマートフォンやSNS、生成AIといったものが普及していない、という様な分かりやすい違いだけではない。作中では、かつて予備校という場所が持っていた、「異なる学校に通っている、様々な価値観や属性を持った生徒たちの接点」という役割や、「学校ではない。かといってプライベートな場所でもない」という独特の空気が描かれているけれど、現在の予備校にも同じ空気はあるのだろうか。そもそも予備校の数も、予備校に通う学生の数も減っている中で、どれだけの読者に、特に若い読者にこの機微が伝わっているだろうか。
30年近くの時を隔てた『過去を写し取った現在』というのは、今の10代、20代からすれば自分が生まれてもいない過去の話であり、それはもう現在というよりもある種の異世界であって、現代とは呼べたとしても現在ではなくなっている。若い読者からすれば、そこに投影された2026年の『今』を読み取るというのはかなり特殊な体験になるはずだ。自分の様に、10代の終わりに『ブギーポップは笑わない』と出会って以来、長年上遠野浩平作品を追い掛け続けている様な人間からすると「いつもの上遠野浩平」「いつものブギーポップ」で無意識に流してしまっている前提であり約束事ではあるのだが、その前提を知らない、たまたま今、本作を手に取った若い読者がいたとして、『現在と約30年分時間軸のずれた、作中における現在を生きている登場人物たち』という世界観の特殊性は、どの程度の違和感をもたらしているのだろうかと若干不安になる。彼らからすれば、何なら異世界を舞台にしたファンタジー小説やSF小説、異世界転生ものの中に同じテーマを入れ込んでくれた方が、まだ違和感がなく読む事ができるかもしれない。
そして、特に説明もなく過去作や別シリーズ作品の登場人物たちがゲストとして登場するのもブギーポップシリーズ問わず上遠野浩平作品の特徴ではあるが、本作とクロスオーバーする作品である『ソウルドロップの幽体研究』が刊行されたのが2004年であり、そこから始まるソウルドロップシリーズの実質的な最終巻である『コギトピノキオの遠隔思考』ですら2012年刊行である事を考えると、「自分を含めた上遠野ファンは当然知っているから問題ない」とはとても言えない。
冒頭で自分は、「上遠野浩平は常に『今』を描く作家だ」と書いた。でもその『今』を投影するための作品世界は、10年、20年前から動けない過去に固定されている。そして作者が描く『今』を読み解くために、読者は現実世界から見れば明らかに過去にあたる作品世界を思い出し、自分の過去の記憶に存在しないならば想像を巡らせて、その時代に触れる必要がある。作中のテーマである『今』を知るために、過去を回想する。そういう工程を挟んで、読者は本作に向き合う。
この屈折した状況で、若い世代の読者にどれだけこの作品が届いているか。若い世代に作品を届けるために、ブギーポップの約束事という外枠に作品を収めるための行為がプラスになっているか。
自分にしては珍しく、こんなネガティブな事を長々と書いているのはなぜかと言えば、それは本作に描かれているテーマを最も必要としているのは、自分の様な中高年ではなく、10代20代の読者なのだろうなと思うからだ。上遠野浩平が描く『今』を切実に必要としているのは、彼らだろうと思うからだ。
物心ついた時からインターネットが普及していて、スマホやSNSがあって、動画投稿サイトがあって、その中で自己表現をしている人が世界中にいて、そんな中から生まれてきた、インフルエンサーと呼ばれる大きな声を持っている人が言う事に皆がなびいて行くのが当たり前の社会。誰かが誰かの行為を常に晒し上げていて、それに皆で言葉の石を投げて溜飲を下げる社会。今日はこれが炎上していて、明日は別の誰かが炎上する。怒りの感情のスイッチがオンオフしかなくて、しかもそのスイッチを握っているのが自分じゃない感覚。それで誰かが傷付けば、「いや、自分じゃなくてあいつがやれって、怒れって言ったんですよ」って誰もが他責にする。だったらそうやって他人を扇動している側の奴は確固たる自分の意志があってやっているのかといえばそんな事もなくて、注目を集めて小銭を稼ぎたいだけの、逆張りと煽りしか芸がない、昨日と今日で言っている事が正反対にひっくり返る様な、自分の中に芯が無い奴だったりする。
本作で描かれる『プルハ・メルハ』による騒動も似た様なもので、ブギーポップの世界観に落とし込んでいるから悪い妖精の姿を取っていたり、それから身を守るものも何やら意味ありげな言葉が書かれた紙が中に入っているお守りだったりするのだが、現実に置き換えてみればそれは自分をそそのかすために絡んでくる他人と、それっぽいだけで本当は何の意味もない言葉を意味があるものの様に押し付けてくる誰かでしかない。そんなものに惑わされてしまうのは、自分の感情を飲み込むくらい、常に他人の感情が押し付けられているからだ。
何気なく眺めているSNSのタイムライン。ながら視聴している誰かの動画。今日のトレンドに表示される時事問題。バズっている誰かのポスト。炎上している他人とそれに石を投げている誰か。そんなものが目に入る度に、他人の言葉、他人の価値観、他人の感情が常に自分に絡んできて、自分自身の感情に目を向ける時間が削られて行く。今自分が考えている事が、ちゃんと自分の感情から湧き上がって来たものなのか、誰かの言葉や価値観に流された結果なのかが分からない。
ちゃんと孤独になる事。
自分だけと向き合う事
自分たちが生きている『今』は、本作で上遠野浩平が描いている『今』が指し示している通り、孤独を拒む。他人が自分を独りにしてくれない。頼んでもいないのに絡みついてくる。こっちを都合よく利用するために。
みんなが、本当はそれに薄々気付いている。でも自分に絡みついている他人の意思を振りほどく事ができない。何なら自分もそういう嫌な仕組み、機構の一部であって、誰かを束縛してもいるだろうし、自縄自縛に陥ってもいる。そこから抜け出して自由になる事がどうしてもできない。
じゃあどうするか。そんな答えがすぐに見つかったら苦労はしないのだが、ひとつの処方箋として『本を読む』という事があるのではないかと、ふと思う。本はこちらから歩み寄らないと何も返してこない。自分で読まなければ読み解けないし、勝手に本の中身を押し付けてくる事もない。そして自分から向き合わないと何も答えてくれない以上、他の何かに気を取られながら、何か別の事をしながら小説を読む事はできない。少なくとも自分は、それができるという人に会った事はない。
本は、読者をちゃんと孤独にしてくれる。
作者と物語と、読者である自分しかいない時間を与えてくれる。
だから自分は、上遠野浩平に若者に向けた物語を、『今』を、もっと書いてほしい。時に今までの作品にとらわれる事なく、もっと若者を直接刺す様な物語を。それがどんな物語になったとしても自分はまた追いかけて行くのだし、何より、10代の終わりに自分が『ブギーポップは笑わない』に出会った時の様な体験を、今の10代にしてもらいたい。
まあ、これもまた他人の感情の押し付けだと言われればそうなのだけれど。読者とはそもそもこういう勝手な事ばかり言う生き物だから。