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社会福祉法人職員の視点から・亜月ねね『みいちゃんと山田さん』アニメ化に関する騒動について

黒犬
·
公開:2026/8/2

「最初に自分の職業なり属性なりを断り書きの様に書いてから内容に入る記事」というのが正直嫌いだ。

「私は精神科医で」「私はADHDで」「私は発達障害で」「私は作家で」とか、今回の件でも様々な人が様々な立場で発信しているし、自分もXで呟いたりしてみたけど、こういう「お前はどの立場で喋ってるんだ」という事が問われる状況に「私はこの立場で言っている」という返し方をしなければならないのは窮屈だし、持論に説得力を持たせようとして職業を持ち出すのは割と姑息だと思う。

 で、『嫌いだ』『姑息だ』って言っておきながら、何で自分でもやらなきゃいけなかったのかというと、今回の問題については『表現の自由』だとか『人権(障害当事者の人権だけでなく、作者や支援者といった広い範囲の人権を含む)』といった、それ単体でも重大な問題がいくつか混ざり合い、入り組んでいて、今の自分がどの立場から喋っているのかというのを明記しておかないと他人には響かないな、と思ったからだ。そして、「漫画や小説の読者」「アニメの視聴者」「成人男性」といった自分の属性の中から『社会福祉法人職員』というひとつの属性を選び、その視点から物を書く事にしたのは、「同じ視点を持っている人が少ないだろうな」という単純な理由だったりする。複雑な問題について語る時、全体像を把握するには多角的な視点があった方が良い。

 ただ、この「社会福祉法人職員」という視点から語る事には難があって、それはXで書いた通り『守秘義務に縛られる』という事と、「自分の中のひとつの属性を選んで語る以上、そこから離れた事は書けない」という事だ。

 実際、漫画や小説の読者としての自分は「表現の自由なんて仰々しい事を言わなくても、作者は自由に作品を書き、世に出せる状態であるべきだ」と思っているし、『みいちゃんと山田さん』(以下『みい山』)でもそれは同じだ。『みい山』を発禁にしろとか、アニメ化を潰せ、と要求する権利は自分にはないし、「人権や道徳を一旦脇に置いて、作品論だけを語って良いよ」と言われれば、小説家の江波光則氏がnoteで書いていた以下の記事に近い視点で、もっとドライに、俯瞰して『みい山』について書ける気はする。

 しかし、現実に重度知的障がい者と接する仕事をしている自分からすれば、ここで『みい山』には何の問題もないとしてスルーし、以後何も言わないというのもそれはそれで許せない事ではある。だから社会福祉法人職員という視点を選んだ上で、表現の自由よりも優先すべき人権という問題に軸足を置いた上で、以下に書いて行く。

<現実≠露悪と綺麗事≒理想との違い>

『みい山』はリアルだと多くの人が言う。ただ、ここで言う『リアル』は、実際には『リアル=現実』でもないし『リアル≒現実』でもない。ひとつの漫画の中に、障がい者の現実や障害福祉の現実は収まらないからだ。そこには扱う題材の取捨選択があるし、エンタメに落とし込むための脚色だってある。

 その上で読者が『みい山』に感じているリアルは『夜職あるある』や『グレーゾーンあるある』『発達障害あるある』の様な、作中の山田さんやみいちゃんポジションから垣間見える範囲の狭いエピソードの寄せ集めに対する「あ、私も同じ事あったわ」「似たような事聞いたわ」「私もみいちゃんみたいな人知ってる」といった共感だ。逆に言うと『みい山』のリアルはそこにしかない。

 ただ、個々のリアルなエピソードの積み重ねでできている『みい山』は、その結果『現実』に近付いて行くのかというとむしろ逆で、『露悪』の方向に舵を切ったエンタメ漫画になって行く。これは作者が最初からそのつもりで描いているというより、読者がそういう読み方を選んで盛り上がったからそちらに引っ張られて行ったという気がする。

「みんなは知らないかもしれないけれど、夜職の世界ってこんなだよ」とか「そこにはみいちゃんみたいなとんでもない人がいて、こんなひどい目に遭っていたよ」という「他人の不遇や転落や不幸って面白いね」「こういう人(『みい山』ではみいちゃん)はどんな死に方をするんだろうね」という露悪エンタメ。これは不動の人気を誇るジャンルだったりする。何も『みい山』の専売特許じゃない。

「FXで有り金全部溶かす人の顔」だの「ソシャゲガチャの爆死配信」だの、重いものから軽いものまで、とかく他人の不幸はエンタメにされがちだ。また『かわいそうはかわいい』とか、既にジャンル化している『曇らせ』とか、「主にかわいらしい絵柄で庇護欲をそそる様なキャラクターを登場させ、わざとひどい目に遭わせてその表情が曇る所が見たい」という、作者や読者の暗い欲求をそのままお出しして来る様な漫画だってある。昔なら『ゆっくり虐待(ゆ虐)』とか。SNSと結合して悪目立ちする様になっただけで、サブカルチャーの世界には、そういう直球の『悪趣味』や『露悪』が普通に存在しているし、存在する事を許されているし、これからも存在し続ける。

 だからこの『みい山』という作品は、読者が好む姿をした『リアル』ではあるけれど、それは露悪系エンタメであって『現実』じゃない。その上で、「現実じゃないから何を描いても許される」っていう事もない。世に出すまではいい。表現の自由だと言うのであれば。でも、世に出したからには正当な批評や批判を受け止めろという話だ。

 自分からすれば、露悪系エンタメのネタに、みいちゃんやムウちゃんやツバサ、そして彼らの家族といった障害当事者とその家族を使って欲しくなかった。「みいちゃんは作中で障がい者だと診断されていない」という事を理由に「みいちゃんは障がい者じゃない」と強弁する人もいるけれど、自分はその屁理屈は通らないという立場だ。医療や福祉にまだ繋がれていないだけの障がい者なんて現実にいくらでもいる。

『みい山』がありふれたエンタメ漫画なのだとすれば、「そんなに目くじら立てて批判する事もないだろ、綺麗事語ってんじゃねーぞ」と言われそうな気もする。でも自分は福祉の仕事をしているので『綺麗事』を捨てたとたんに『理想』も死ぬ事を知っている。ここで言う『理想の死』とは何も高尚な目的や主義主張の死ではなく、もっと単純に、そして具体的に『虐待の始まり』を意味する。

 これは「交通事故ゼロと言い続けないと、事故件数を減らす事すらできない」という事と少し似ている。それは「交通事故ゼロと言っても、(ドライバーの意思ひとつで防げる筈の)飲酒事故すらゼロにできない現実」とはまた別の話だ。

<『言葉狩り』の正しさ>

『障害者』を『障がい者』と表記すべきだという動きがある。

 実際に、都道府県や市区町村の『障がい福祉課(係)』が『障がい福祉課(係)』に変更されたりしている。あとは障がいの表記を無くして『社会福祉課』や『福祉介護課』という名称を使う所もある。これを言葉狩りだと言う人もいるし、そんな細かい表記を気にしたところで意味はないという人もいる。自分は仕事柄、制度や法律の名称表記には『障害者』を使うけれど、個人を表す時には『障がい者』と書く事が多い。

 内閣府のHPにも『「障害」に係る「がい」の字に対する取扱いについて』という調査結果がある。(リンク先は平成20年度のもの。最後が平成26年度の資料なので古いけれど)

 また、『みい山』の話で言えばそもそもみいちゃんを『みいちゃん』と呼ぶ事は虐待に当たる。

 福祉を仕事にしていない人には「何だそれは」という話だろう。でも、こども家庭庁が出している『障害者福祉施設等における障害者虐待の防止と対応の手引き』の中には『心理的虐待』の中の『侮辱的な発言、態度』の具体例として「子ども扱いするような呼称で呼ぶ」「本人の意思に反して呼び捨て、あだ名などで呼ぶ」事が記載されている。

 自分はこれまで『みい山』のみいちゃんを「みいちゃん」と書いてきた。他の読者と話が通じなくなるからだ。でも実際に仕事上で彼女に接するなら、職員は全員彼女の事を「中村さん」または「実衣子さん」と呼ぶ。彼女は作中の設定では21歳らしい。つまりは成人女性で、成人女性を子ども扱いして「みいちゃん」と呼ぶのは虐待に当たる。これはムウちゃんも同じだ。本人が自称しているからとか、親しい人にそう呼ぶ事を許しているからとか、そんな事は関係ない。福祉職員は家族でもなければ友人でもない。

 これらは福祉業界の外側から見れば下らない言葉狩りだが、こうして職員の意識の上で明確に線引きをしておかないと、より酷い虐待(身体的虐待や性的虐待)につながって行く。障害者の「害」にはマイナスイメージがあり、「みいちゃん」という呼び方には無意識に相手を大人として認めず、同じ人権を持つ対等の存在として扱わず、常に下に見る態度が含まれている。

 狩られる言葉には狩られるだけの理由がある。そういう常識の上で、福祉の仕事は成り立っている。「そんな言葉狩りに意味は無い。だって現に福祉の中でも虐待は無くなっていないじゃないか」と言われればその通りだ。でも「交通事故ゼロと言い続けないと、事故件数を減らす事すらできない」様に、虐待を無くすには虐待につながる恐れのある言動を排除していかないと、虐待件数を減らす事もできない。それが福祉の厳しい現実だと思う。

<表現の自由と福祉の間で>

 福祉の世界から一歩外に(地域に)出てしまえば、「表現の自由があるからどんなネタでどんな漫画を書いても許される」世界が広がっている。それはどんな差別も虐待も『起こり得る』世界だ。(『許される』と言いたくはない)

 自分たち福祉職員だけが虐待防止研修を受け、守秘義務を守り、職場の愚痴すら口を閉ざし、利用者からの暴言や暴力に耐えて(『障がいにより克服困難なことを、障がい者本人の責めに帰すような発言をする』事は虐待であるため)みても、それだけで障がい者の人権が守られる社会は実現しない。そして厚労省の方針の通り、施設入所の定員を削減し、これまで施設に隔離されて生活していた重度知的障害者にも可能な限り地域移行を求めて行くならば、それは「『みい山』が累計発行部数280万部を超える社会」で暮らす障害当事者を増やして行くという事にもなる。

 大丈夫なのか? と思う。

 地域移行する事ができず、現状施設入所支援で生活している重度知的障害者は、衝動的に施設を抜け出したりしない限り問題を起こさない。地域社会との接点が限られているからだ。交流が無ければ軋轢もない。施設の中での問題行動は外に漏れない。自分たち施設職員が漏らさないし受け止めているからだ。それよりもみいちゃんの様に能力が高く、地域の中で暮らす障がい者の方が、健常者との接点が多いためにその行動のひとつひとつがトラブルの元になり、他者から責められ、経済的に搾取され、様々な形で虐待される。

 そしてこれは一般論として話せる範囲に留めるが、『みい山』に登場する障がい者はとんでもない存在としてモンスターじみた描かれ方をしてしまっているけれど、福祉の現実においては当然『みい山』がワーストではない。もっと複雑な家庭環境があり、もっと激しい強度行動障害があり、触法障害者の問題があり、親からのあらゆる虐待や育児放棄があり、経済的虐待(搾取)があり、介護を背負わされるきょうだい児の問題があり、生活保護や障害者年金受給に関する貧困の問題がある。もっと言えば、強制不妊手術で問題になった旧優生保護法が廃止されたのも1996年で(現在は『母体保護法』)それでも『みい山』の読者がみいちゃんの姿を見て「優生保護法が正しかったって事じゃん」って軽く言ってしまえる様な社会が眼の前の現実としてある。そしてSNS上では、『みい山』が話題になる事はあっても、これら具体的な障害福祉の問題が真剣に話し合われる事はない。

 そんな厳しい現実の上で、障がい者本人の人権が扱われている。

 それでも『みい山』のアニメは予定通り放送されるんだろう。来年だったか。で、その時に思い出した様に炎上するまでの間、また世間の無関心の谷底にこの問題は放置されるに違いない。現実に存在する障害者福祉の課題は、表現の自由の様に誰でも参戦できるキャッチーな話題ではないからだ。面倒臭く、責任が重く、容易に解決できない。

 自分は表現の自由と障がい者本人の人権との戦いに参戦するほど暇じゃない。眼の前に実在の障がい者がいるから。それでもこんな事を書かずにいられない程には、問題意識を持っている。

 作者はどうだろう。出版社や編集部はどうだろう。そして読者や視聴者としての自分たちはどうだろう。叶うならその事を問うてみたいとは思う。

@kuroinu2501
あまり吠えない犬です。