東京電力の柏崎刈羽原子力発電所の再稼働に新潟県知事が容認姿勢を示したというニュースが出て、その問題点を取り上げる際に、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故をかなり事細かに振り返るラジオニュースに遭遇した。
一連の原子力を巡る問題、あるいは2005年のライブドア事件のような、企業を巡る不祥事を巡ってはしばしば報道が過熱する。
こういった問題が起きた際は企業の上層部、あるいはそれ以外でも問題に直接関与した人物の責任は問われねばならない。しかし、その企業の従業員の多く、ましてやその家族はその問題を引き起こしたような意思決定には関与していない。
それでも同じ企業に関与した人物としてみられ、一般市民からの、とりわけ子どもにおいては学校関係者からの、差別や偏見に晒される。報道陣による執拗なアプローチなどの報道被害が起きることもある。また、その企業不祥事によって被害者がいる場合、その被害者の救済が優先され、このような従業員や家族といった存在にはスポットライトが当たらないし、スポットライトを当てた報道があったとしてもそちら側の報道に対して罵声が浴びせられることもしばしばある。こういった事態に巻き込まれた従業員や家族が声を上げることは極度に制約されるという社会環境が存在する。
こうした状況下で、先述したように事件・事故の振り返りというのは定期的に行われる。確かに事故や災害を忘れない、風化させない、といったことは重要である。でも、その出来事によって「十字架を背負わされた」我々のような存在(※震災当時の東京電力社員の家族)にとっては傷口を抉られたということになるのだ。
前近代の日本では連座制や縁座制、つまり罪を犯した者と血縁関係や主従関係のある者も罰することというのが当たり前に運用されていた。最近話題になっている選択的夫婦別姓への反対論に対して指摘される家父長制の残滓とともに、近代化で法的には人権が整備されても、人々の人権意識というのを変えるのはそう簡単ではないということの一例、そう理屈では説明できるが、実際に当事者となってみるとやるせない思いになる。