鍾離様に抱擁をされている。
魈の記憶では、望舒旅館で仲睦まじい恋人同士が抱きしめ合っている光景をみたことがあるくらいだ。仙衆夜叉は降魔を役目とし、特に魈は人と馴れ合わない。
また、娯楽小説で凡人がよく使う「愛している」という言葉も彼には理解出来なかった。魈にとってこの様に己の身体が相手の腕の中に収まり、相手の温もりを感じるなんてことはまずない...はずだった。
そして自分を抱きしめているのは、敬愛する主君であり、自分を救ってくれた恩人である鍾離。
魈と鍾離は、恋人同士ではない。では何故このような行為をするのか、真意を問おうと口を開きかけた。だが、何故か言葉が出ず、魈はただただ体を強張らせ耐えていた。
その間の時間は、抱きしめられたままの魈にとって永遠のように感じられたが、鍾離はすぐに抱擁を解くと魈に目線を合わせた。
「凡人にとって、人生とは暗闇の中を歩くようなものであり、それは孤独で険しい道のりだ。だから...」

「魈、残りの旅路を俺と共に歩んでくれないだろうか?」
「なりません。そのようなお役目は我には、あ...あまりにも畏れ多く、この身に余ります。」
魈は狼狽える己を制し、かろうじて搾り出すような声で言った。
「魈、俺はもう神ではない。」
はっとして魈が見上げると、鍾離の顔は今にも泣き出しそうな迷子の子供のようなそれであった。