昨日noteにこんな投稿をしてみた
できるだけわかりにくく遠回しに星街すいせいを勧めてみたら思いもよらない人に興味を持ってもらえるのではないかという試み。
案の定誰からも読まれてなさそうw
あまりにも遠回りしているので以下に翻訳版を残しておく。
(というかnoteの方がこれをわざわざ難しく書いたやつなんだけど)
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流行しているものには一度は触れておきたいタチなので、最初は「少し話題になっているものを見てみよう」程度の動機で触れてみることに。
当初の印象は正直イロモノに近かったが、配信やコンテンツを追ううちにその評価は自然と変わっていった。
そこには、作品としての強度や継続的な活動が求められる、想像以上にシビアな表現の現場が広がっていたからだ。
企画、表現、演出、そして継続性。どれか一つが弱いだけで簡単に埋もれてしまう。この構造自体は他のエンタメと変わらないが、「緩いキャラクター遊び」に見えていた当初の印象とは大きくかけ離れていた。
ここで一人、星街すいせいの名前を挙げたい。
武道館ライブの成功、THE FIRST TAKEへの出演、地上波番組・ラジオへの露出、Forbes JAPAN「世界を変える30歳未満30人」への選出、ガンダム等の有名作品での楽曲起用。
すでに多くの場面で一般的なアーティストと同じ土俵に立っている。
とはいえ、起用する側や世間にはまだイロモノ的な保留があるかもしれない。
彼女はその認識そのものを更新していける存在だと期待している。
ここでは星街すいせいの話がしたいわけではない。
彼女をはじめとするVtuberの活躍でVtuberがより一般的な存在になっていく未来の話がしたい。
その未来に向かうにあたり、エンタメやメディアの評価軸が少しずつ変化していくのではないかという期待がある。
従来の芸能や創作の世界では「性別」「容姿」「年齢」などの肉体的な条件が無視できない影響を持ってきた。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。身体を前提にした表現には、身体そのものの説得力が必要な場面もある。
しかしVtuberという形式では、そうした条件の多くが覆い隠され、極端に言えば“作品そのもの”が前面に出てくる。
企画、演出、表現力、積み重ねられた作家性。評価されるのは肉体ではなく制作物の総合力に近い。
ここでいう作家性というのは例えば「星街すいせい」の場合ならタレント性と言い換えてもいい。彼女が積み上げてきたストーリーやキャラクターはアイコンとなり、強力なアイコンは良質な当て書きを可能にする。
依頼されてモノを作る人間にとって重要なのはより具体的な仕様書やテーマであり、この場合発注主の存在そのものがテーマの軸としてアイコニックな存在であればあるほど出力の精度が上がるということ。
彼女が主に発信する出力でいうと音楽とそのMVということになるが、本人が直接制作に携わる深度に関わらず全ての作品が「星街すいせいが歌うべき曲」に仕上がっているのは聴いていただければわかる。むしろ「星街すいせい」というキャラクターを全く知らなくてもなるほど彼女はこういう女性なのかと逆算できるほどに(実際私もその順番で彼女を知った)彼女の生き様はアイコン化されている。
その意味でVtuberは「身体性から自由になった新しい表現」であるにもかかわらず、同時に「人格を軸にしたコンテンツ」という普遍的な題材を取り扱う場合が多い。この組み合わせはこれまであまり見られなかった姿かと思われる。
もちろん完全に身体から解放されているわけではない。声帯は身体だし、配信には体力も必要だし、ステージに立つならレッスンやトレーニングも欠かせないわけだが、視聴者が評価する軸が “作品性” に寄っていくことは確かだ。
こうした変化が進めば、長く当然視されてきた「見た目による選別」が相対的に弱まっていくかもしれない。
フィジカルな条件で参入できなかった多様な表現者が活動できる環境が整うことで、“面白いものが面白いまま評価される”という健全な土壌が育つ可能性がある。
同時に、フィジカルなアドバンテージが武器にならないぶん、内容そのものの質はこれまで以上に厳しく問われる。
もしかすると作り手にとっては、より実力が試される厳しい世界かもしれない。
実際、多くのVtuberは既にその厳しさを理解して活動している。
外面の魅力に頼るのではなく、企画や演出を磨き、音楽・雑談・ゲーム実況などさまざまな領域で「作品」と呼べる品質を生み出そうとしている。
その姿勢が文化の下支えとなり、裾野を広げているように思う。
そしてこの潮流がさらに一般化すれば、Vtuberは単なる“バーチャルのタレント”ではなく、身体性に依存しない新しい表現領域としての位置づけを持つようになるのではないだろうか。
さらに要約
星街すいせいを聴け