鼻の周りが昨日くらいからずっと痒い。鼻水も少し出る。花粉症ではなさそうである。鼻の穴を擦ってしまうくらいには痒いときがある。季節の変わり目だからだと思いたいが、去年末くらいから前歯の知覚過敏の処置が復活しているので、その副作用かもしれない。早めに歯医者にいかなければ。
『ナイルパーチの女子会』を観終わった。後半の勢いは凄まじく、ジグソーパズルをして気を紛らわせながら観なければならないほどだった。主人公の栄利子は、友人を自分を楽しませてくれるお人形としか思っていなくて、だからお人形が「体調が悪い」とか「いまの言葉は傷ついた」と言ったとしても、「そんなわけない。大丈夫でしょう」となかったことにしようとして、お人形遊びを続ける。むしろ、傷ついたなどと言われると憤慨して、「私はこんなに一生懸命あなたのためにいろいろしてあげているのに」と裏切られた感を出す。お人形が主張することなんてありえないからだ。お人形は黙って言うことを聞き、持ち主を楽しませるだけでいい。きっと母親も私のことをそんなふうに思っているところがあるのだと思う。先日、父親が激昂した際に私だって傷ついたと伝えても、「そう?」としか言わなかったし、その昔は叔母との旅行に私が”当然行ける”ものだと思い、私への連絡や許可取りはしていなかったこともあった。それは、私をお人形のように自分の所有物だと見做しているからこそ出る発言だ。栄利子も、「親友だからこれくらい当たり前」「親友だから当然」としきりに言っていた。母親も「家族なんだから」という言葉をよく使っていた。型にはまるのは楽だけど、型にはめられる方はその型が自分のかたちに合っているものだとは限らない。窮屈さや心細さを覚えることだってある。栄利子だけでなく、その友人になった翔子も自分の飛躍のために栄利子を利用したり、注目されることがうれしくて不倫したりしていたので同情はできない。でも、そういう部分があるからこそ人間だ。ちょうど今日進めていた原神のストーリーでも、「だめな部分もあるからこそ人間だ。人間をもっと楽しんで」というような台詞があった。私自身、栄利子の不安も分からないではない。人間関係における正解が分からず、相手から連絡がないと「間違えたかな」と思ってしまうときもあった。取り越し苦労だと分かったときに「良かった、嫌われてなかった」と安堵したり、うまくいっていた時期の思い出にいつまでも執着して「あの頃の二人に戻らなくては」と謎の使命感に駆られている場面は、過去の恋愛を彷彿とさせ胸が痛んだ。でも、そういう失敗を繰り返してこそ人との距離をだんだん取れるようになるものだと思う。
父親が無事退院してきた。帰宅早々、母親と夫婦漫才を繰り広げていて、騒がしくも愛おしい日々が戻ってきたなと思った。父親がいてこその母親だし、母親がいてこその父親な我が家なのだった。少し羨ましい目線を向けながら、すぐ横で二杯目のコーヒーを淹れた。