昨日の悪夢の余韻が残っているのか、ずっと息をするのが辛い。喉や横隔膜のあたりで詰まった感じがする。映画の内容をまだ咀嚼しきれていないというのもあるかもしれない。
あれからボーの公式が出している解析サイトやレビュー、インタビューなどを読み耽っている中で、とある関係者が「ミッドサマーは当然観ておいてほしい」と言っていた。「ミッドサマーのほうがまだ分かりやすくてまし」と友人も言っていたので、さんざん避けてきたミッドサマーを観ることにした。結果、ひよこに感じるほど普通に観られた。しっかりストーリーが進むし、人間たちもまともに会話しているシーンが多く、安心すら覚えた。そもそも映像の花がたくさん登場したり光をたっぷり含んだ北欧の空気感が感じられたりして、美しさのほうが際立っていた。構図も相変わらずで、見惚れる場面も多くあった。グロさはミッドサマーのほうがあって、薄目にすることが何回かあったけど、ラストシーンで登場した枝が何本も刺さった人の頭部は、恐怖よりも美しいと思ったのが先立った。
恐怖と美は両立しているのかもしれない。あまりにも美しいものを見たとき、こんなものが存在しているのかというおそれを抱くことはあると思う。だから、枝が刺さった頭部や目の代わりに咲いた花などは、むしろ惹かれてしまっていた。ただ、これが映画の世界だから受け入れられているだけで、もし現実で遭遇したらそんなことは言っていられない気がする。
話自体も好きな方だったけど、映像の美しさを味わってしまってあまり物語の感想が出てこない。主人公のダニーがとにかく人に嫌われないように相手に合わせ過ぎている描写が多くて、少しうんざりしたくらいか。そんな中で参加したダンスバトルでうっかり女王に選ばれてしまって、崇め奉られていくうちにそこに自分の居場所を見出してしまう場面は胸が痛んだ。自分がもし気乗りしない大会に参加してしまったことで権力を持つ立場にならざるを得なくなったとしたら、もう逃げられないよなと思った。間違いなくホルガ村の人たちの思想は狂気に満ちているのに、狂気が大多数を占めるといくら自分が正しくても間違っていると思ってしまいそうだ。
こうして映画を思い返しながら感想を書いていても全然嫌な感じがせず、むしろ「綺麗だったな」とさえ思っているので、やはりボーはすごい。あのポスターを見るだけで一気に不気味な気分になるし、思い返してもまだ具合が悪くなる。この調子でヘレディタリーも観るか。アリ・アスターは、人間の醜い部分や描写としても「そこまでは見せんやろ」というところを惜しげもなく見せてくる。だから逆に信頼できる。昔「やたらと綺麗な言葉で感動するような物語を書く人は、実際に会ってみるとドロドロしていて、おどろおどろしい話を書く人ほど会うとさっぱりしている」というような話を聞いたことがあるけど、それに当てはまると思う。インタビューなどで見るアリ・アスターは屈託のない顔で笑っていて、人がころんだという話に対して「痛そう!」と言っているなど、あんな映画でぐちゃぐちゃにしているのにそこは痛そうと思ってくれるのか、と人間味を感じたのだった。普段の生活でも、きれいな言葉だけを使っていたりネガティブを避けてポジティブだけを見ようとしている人たちは、なんとなく歪な感じがする。陰と陽、どちらもあるから世界は成立するし、闇があるからこそ光を感じられる。どちらも忘れないようにしたいものだ。