朝起きて、まだ若干頭が重いのに気付き少し萎える。10時を過ぎると落ち着いてくるとの予報を読み、少しほっとする。
朝一で認定日のために職業安定所に行く。
朔月参りに、地元のお気に入りの神社に行った。陸繋砂州を通って渡る島にあるその神社は、海を見下ろせる高台にある。朝の光と潮風がとても気持ちよかった。お参りを済ませ、おみくじを引くと「今は人のしらぬ胸の苦しみがありますがさわがず信神して時の来るのをまち身をつゞしんで行いを正しくすれば必ず幸を得る時が来ます」とあった。神社を出るころにはすっかり頭痛もなくなっていた。
神社を後にし、近くのおむすび屋さんへ。陽の気が強い店員さんで少し物怖じしたものの、おむすびはふっくらつやつやで美味しかった。帰り際にそのことを伝えると、屈託のない笑顔で「本当ですか!ありがとうございます」と言われ、そのまぶしさが照れくさくもうれしくもあった。
帰宅すると、友人から封筒が届いていた。中身は、先週トークイベントに参加した土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』だった。大きな封筒に堂々とした文字で宛名が書いてあって、友人らしいなと口元が緩む。
その後、なんとなく気が向いたので中川家のラジオを聞きながら部屋の模様替えをした。そうしようと決めていないのにその方向に気が向くのは、神社に行ったからな気がする。お参りをして宣言をすることで、意識が書き換わって行動も変わる。もう何年も前から、新月と満月のときには宣言文を書くことを習慣にしているが、それも同じことだと思っている。一見書くだけでは何も変わらないように見えるが、実際は頭の中で文章をひねり出すために意識を巡らせ、望む方向に焦点を当てる作業が起こっている。昨日の新月では許しが大きなテーマになったが、おそらくこれから許しを経験するような出来事が起こってくるはずだ。
毎日こうして日記を書いているのにも、同じことが起きているのかもしれない。頭の中を繋ぎ合わせて、しっくりくる言葉を探す作業が日常生活にも影響を与えている気がする。