掃除をしながら「相談は踊る」を流していたら、「昔顔占いができるという人から”損をする顔”と言われたことが気になる」というような内容が聞こえてきて、思わず耳をそばだてた。私も昔、とあるスピ系の”みえる”人のサイン会で、名前と一緒に一人ひとりに見えたことをメッセージとして書くということになって「お前は心がブサイクだ‼️」と書かれたことがある。それ以来、電車やバスで席を譲ったり、道のゴミを拾って捨てたり、誰かに感謝されたりしたとしても「でも私は心がブサイクなんだ」と、プログラムを組んだかのように思い出すことになった。でも、去年とあるお茶会に参加した際、会の最後に参加者一人一人にメッセージを渡しましょうとなったときに、その中のお一人が「あなたの心はきれい」と書いたメッセージカードをくれた。その瞬間、あの言葉の呪いがすーっと解けたような感覚があった。終わったんだな、と思った。そのとき、伝えてくれた人にお礼を言えていなかったかもしれないと思い、思いきっていまさらメッセージを送ってみることにした。ややあって「覚えていますよ」と返事があり、そこに書かれている言葉にまた喉が熱くなった。
今日は職業訓練に通い始めて初めての中間考査を受けた。これまでのテストの傾向からして、そこまで難易度は高くないだろうと思っていたら甘かった。めちゃくちゃちゃんとした試験だった。ずっとマサラタウンで遊んでいて、まずはこの町でゆっくりがんばろうね、と言われていたのに、「今日は実践をやってみよう」といきなりサカキに挑まされたような気分だった。これでよかったのかという気持ちが拭えないまま課題を提出してパソコンを閉じた。
夜、米津玄師のインタビューを読み震える。私も「知るか!」と言って、たとえ地獄を見たとしても、獣道だとしても「こうありたい」「こうであってほしい」という祈りを込めて世に打って出たい。いろんなことに配慮が求められて、誰かを傷つけないように慎重になって言葉を引っ込める場面がたくさんあるけど、それでも自分が血を流すことでこの先の未来に希望が見えるようになるなら進んで先頭を歩きたいと思う。絶対に後ろを振り返ってばっかりにはなると思うけど、振り返ったときに誰か一人でもそこを歩いているなら心強い。誰もいなくてたとえ一人だとしても、希望を捨てずにその道の先に光が差すことを信じて歩き続けるしかない。たとえそれが100年後、200年後になったとしても。そうして誰かが祈り続けてきたからいまの社会がある。これから先の社会がより明るいものになっているように、地獄を少しでも極楽と思えるように。数年経てば体の細胞はすべて入れ替わって、何を以て自分だと言えるのか分からないけど、少なくともこうしてずっと書き続けることが自分の存在証明になるように。変わりゆくもののなかで変わらないものを持ち続けること。米津玄師にとってそれは音楽だけど、私にとっては書くことだ。書くことで過去の自分や思いから解放されている感覚がある。書くことで祈り続ける。
この記事のどこを読んでも自分の中のどこかが呼び起こされる感覚があって、こういう言葉を話せる米津玄師はもちろんだけど、この言葉を引き出してくれたインタビュアーの方が本当に素晴らしい。署名がないからどこのどなたかを知ることはできないけど、この記事のおかげで奮い立たせられたことに感謝を申し上げたい。