春らしい陽気。それだけで走り出したくなる。半年以上ぶりに歯医者に行くため、昼過ぎに家を出た。バスに乗って景色を眺めていると、胸の奥がじわっとあたたかくなってきて、景色よりもその感覚を味わうことに喜びを覚える。そのあたたかさは懐かしさに近く、記憶を味わっている時間とも言える。そしてその感覚を言葉にして眺めると、また別の味わいがある。窓の外を見て目についた窓ガラスは、陽の光を受けて薄い緑に透き通っていた。そこから「薄い緑のガラス」という言葉を取り出して読むだけで、細胞が沸き立つ感じがする。その部分だけ差し出したくて、詩を書くのかもしれない。
以前作家の角田光代さんに質問できる機会があって、「角田さんの風景描写はどうしてあんなにありありと情景が浮かぶのですか」と聞いたことがある。角田さんは、「そうやって想像できるあなたがすごいのよ」と答えた。考えたこともない視点に、目が点になった。同時に、角田さんの話術に恐れ入ったのだった。
『百年と一日』を開いたままうすぼんやりとそんな考え事をしていたら、あっという間に降りるバス停に着いた。乗り換えのために一つ向こうの通りに向かおうとする途中で、何度も通ったはずの道に知らない喫茶店を見つけた。レンガにアーチ状の窓が嵌めてあり、入口には赤いマットが敷かれていた。気にはなりつつもまた次の機会に来ればいいかと一度は通り過ぎた。でも、その次はもう来ないかもしれないと、数メートル進んだところで引き返す。振り返ると反対車線にどうしても気になった風景があり、車道の車をかき分けてその場所に辿り着き、写真を撮った。写真は撮りたいという衝動を抑えられない行為だが、「そうせずにはいられない取るに足らない営みがこの世界を支えている」と森田真生さんも言っていたため、堂々と撮った。
喫茶店は、女性が一人で切り盛りしている小さな店だった。コーヒーだけにしてさっと出るつもりが、「生姜焼き 650円」の文字を壁に見つけ、魅力に抗えず注文した。出てきた生姜焼きは、肉が水に濡れた段ボールのようだった。コーヒーはサイフォン式らしく、コーヒー美味しかったな、という記憶にすべく「食後のコーヒー 150円」を追加で頼んだ。お湯に色がついたような味だった。かき消すように一気に飲んだらトイレに行きたくなり、ドアを開けると和式だった。その佇まいを嘘みたいな日当たりの良さが中和していた。手洗い場に置かれたごみ箱は衛生用品を入れるもので、蓋が開いたままになっており、蓋の部分にマジックで「ゴミ入れ」と書かれている。添えられていたみかんの皮の薄さと甘さだけを覚えていようと誓い、店を出る。歯医者の時間も考え、駅までバスに乗ったが、あまりの天気の良さに外を歩く人たちが輝いて見えて、乗ったそばから後悔した。少しでも歩こうと、駅の一つ手前のバス停で降りた。
博多駅から歯医者に向かうバスで相変わらず窓の外を眺めていると、自転車屋の店先で二人の若い女性と店主らしき人が話し込んでいた。一人がずっと店主らしき人に向かってピースサインをしている。看板に「修理大好き!」との文字。
歯医者で「気になるところはありますか」と聞かれて、あれもこれもと3つほど伝えたら、担当のお医者さんに「他には大丈夫ですか」と聞かれる始末だった。結局3つとも何の心配もなかったらしく、改めて自分の神経質さに嫌気が指した。定期検診も問題無しで、「きれいに磨けていますよ」と褒めてもらった。歯の悩みがないというのはこんなにも清々しい。
夕方過ぎに、帰りのバスに乗り込んだ。重たい荷物を抱えていて本を開く余裕がなく、ついついスマホを眺めていた。ふと顔を上げると、乳白色の空が目の前に広がり、見惚れた。こんなにも美しい風景が差し出されているというのに、手の中の些末な情報にいつまでも囚われてしまう。
今日はビヨンセが急遽サイン会のために渋谷のタワレコに降臨していた。整理券配布の30分前に告知され、先着150人限定との触れ込みだったが、一時間も経たないうちに配布は終了していた。誰かがSNSに書いていたが、その150人は昨日の夜までは自分がビヨンセに会ってサインをもらってハグまでしてもらえるなんて、想像もできていなかった未来だ。でも、こういうことは得てして起こる。生きているだけでほとんどすべての可能性は否定できない。ただ生きて、生きて、生き延びるだけだ。