世界が変わってしまった。とは言い難く、でも変わってないとも言えない。新年の浮足立ったあの感じとは対極的な何かに支配されている。良いとか悪いではなく、そういうものなのだな。
今は不安はあまりない。揺れ自体への恐怖がないというのは嘘だが、地震の揺れは不快で、だからといってそれで自分の身がどうこうという不安感はあまりないのだった。強がりだろうか。強がりなのかも。不安なのは父と実家だ。思っているよりも父のことが好きならしい。離婚の時にすでに分かっていたことで、今更だったのかもしれない。いい歳して、と思うのだが。津波で父が死んだら、耐えられない。それがあの日別れる時に思ったことなのだった。べしょべしょに泣いてしまって、父はちょっと笑っていた。大袈裟だと思うが、大袈裟で済んだから良かったのだ。そういうことがこの世にはいっぱいある。避難して欲しいという気持ちがあったのは離れていたからで、一緒にいたら別に避難しようと思わなかったかもしれない。まあそれはそれでそういうもので、と。津波や倒壊建物での圧死、火事のなかで死んでいくという想像は結構嫌なのだけども。
職場の整理に駆り出されて、まあまあ疲弊した。今日は休みのはずだったんですが、とか色々思うのだが。いやそもそも出勤であったか。やらねばならないことは誰かがやらねばならぬ訳で、でも私がやらなくても良くないか、まずてめえが動けやとか、まあ思ったりもするのだが、でもまあ結局やるのだった。とはいえ、結局何かをやったわけでもない気がする。あんまり動いた感がなく、サボっていたような気持ちになっていたし、サボっててすいませんとか言ってた。サボってる訳ではないんだけど、気持ちが。上司とその上司と電話しまくったのが疲れの原因であろうな。で、結局休みだった明日も出る羽目になり、何というかまあ。貧乏籤引いてますね、と思うのだけど、消去法の最善手が私であるのかもと思うと、それが私の価値であり、とも思うのだった。大抵怠いと思うことは私の評価されている部分と直結しているように思われる。
情報戦に負けたらおしまい、と思うのだが、情報の取得をやると、まあ気が滅入る。見たくないものは見たくない。