情報発信のジレンマ

kyoh86
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WEB関係の開発者のような知見を武器にする仕事をしていると、情報発信というものは大きなジレンマを抱えることになる。

  • 世の中には、既に多くの知見を持った人たちがいて、大いに情報を発信している。

  • 世の中には、既に多くの無益な情報が溢れていて、有益な情報への到達可能性を阻害している。

⇒ 故に、自身が持つ情報は「発信されないこと」が最大の価値となる可能性が高く見える。

また、

  • 情報の摂取においては「未知の情報」こそ価値が最大である

  • 経験したことは「既知の情報」となり、「未知の情報」ではなくなる

⇒ 故に、「価値の高い未知の情報」を識別することが難しくなる。

いずれにせよ、情報を発信するという行為を主観的に考えると、その価値は小さい方へ小さい方へと傾いてしまう。

しかし、おおよその人にとって情報は「摂取する」ことを前提としたものであって、独力で考えて導き出せるようなものではない。(独力ですべて導き出しているぞ!という人がいるとするならば、稀代の天才か、ギリシャ時代の哲学者か、傲慢な思い上がりか、のいずれかだろう。)

それゆえに、実際に大多数が主観的な価値に基づいて情報発信をやめてしまえば、世の中の知見は生まれず、共有されず、緩やかに死に絶えていくこととなろう。

これにあらがうためには、次のような戦略のいずれか(※網羅された選択肢ではない)を採ることになる。

  1. 本質的に価値の高い情報を自ら生み出す

  2. 主観的な評価を一旦無視して発信する

  3. 主観での価値を最大化するため、実態以上の価値を装って評価を受ける

誰しもが1.を実行できれば良いのだが、私のような無能な一般人にはなかなか突き詰めがたい課題である。

結果的に2.や3.を採ってさらに有益な情報への到達可能性を下げることを飲み込むしかなくなってしまう。

世の中は、そう簡単に「きれいに、理に適った」回り方をしていない、というのは当たり前のこと。

分かっていても今さらながら、囚人のジレンマよろしくこの矛盾に悲しみを抱きつつ、今日も私は駄文を吐き出すのだ。

きっとこの駄文が誰かの神経回路に小さな小さなきっかけを与え、何か少しでも小さな価値に変わる可能性に、一縷の望みをかけながら。

@kyoh86
そばをたべたい